一 書とは何か 書物は他人の労作であり、贈り物である。他人の精神生活の、あるいは物的の研究の報告である。高くは聖書のように、自分の体験した人間のたましいの深部をあまねく人類に宣伝的に感染させようとしたものか・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ だが、力の強い、鰹船に行っていた川井がすぐ、帯剣だけで立ち上った。 三人は、小屋から外に出た。一面に霜が降りた曠野は、月で真白だった。凍った大地はなお、その上に凍ろうとしていた。三人が歩くと、それがバリ/\と靴に踏み砕かれて行った・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 我々は過去の農民生活についても、十分な結びつきが決してなされていなかったし、体験や知識も豊富でなかった。殊に、現在の、深刻な農業恐慌の下で、負担のやり場を両肩におッかぶせられて餓死しないのがむしろ不思議な農民の生活、合法無産政党を以て・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・ 病室の入り口では護送に行く筈だった看護卒が防寒服をぬぎ、帯剣をはずして、二三人で、何かひそ/\話し合っていた。負傷者が行くと、不自然な笑い方をして、帯皮を輪にしてさげた一人は急いで編上靴を漆喰に鳴らして兵舎の方へ走せて行った。 患・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・は、作者の従軍中の観察と体験とからなったものである。明治四十一年一月の「早稲田文学」に現れた、花袋の代表作の一つであろう。日露戦争の遼陽攻撃の前に於ける兵站部あたりの後方のことを取材している。戦地へいった一人の兵卒が病気のため、遼陽攻撃が始・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿が大権坊という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録に見える席田郡の妖巫の、その霊転行して心・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・私にとっては、その間に様々の思い出もあり、また自身の体験としての感懐も、あらわにそれと読者に気づかれ無いように、こっそり物語の奥底に流し込んで置いた事でもありますから、私一個人にとっては、之は、のちのちも愛着深い作品になるのではないかと思っ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・こういう芸術体験上の人工の極致を知っているのは、おそらく君でしょう。それゆえ、あなたは表情さえ表現しようとする、当節誇るべき唯一のことと愚按いたします。あなたが御病気にもかかわらず酒をのみ煙草を吸っていると聞きました。それであなたは朝や夕べ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・このような客観的の認識、自問自答の気の弱りの体験者をこそ、真に教養されたと言うてよいのだ。異国語の会話は、横浜の車夫、帝国ホテルの給仕人、船員、火夫に、――おい! 聞いて居るのか。はい、わたくし、急にあらたまるあなたの口調おかしくて、ふとん・・・ 太宰治 「創生記」
・・・酔ぱらう心の不思議を、私はそのときはじめて体験したのである。 五 たかがウイスキイ一杯で、こんなにだらしなく酔ぱらったことについては、私はいまでも恥かしく思っている。その日、私はとめどなくげらげら笑いながら、そ・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
出典:青空文庫