・・・もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。 我我は・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
「僕の帽子はおとうさんが東京から買って来て下さったのです。ねだんは二円八十銭で、かっこうもいいし、らしゃも上等です。おとうさんが大切にしなければいけないと仰有いました。僕もその帽子が好きだから大切にしています。夜は寝る時にも・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。先ず先生から受取った原稿は、これを大事と肌につけて例のポストにやって行く。我が手は原稿と共にポストの投入口に奥深く挿入せられてしばらくは原稿を離れ得ない。やが・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・この大雪の中に。 二 流るる水とともに、武生は女のうつくしい処だと、昔から人が言うのであります。就中、蔦屋――その旅館の――お米さんと言えば、国々評判なのでありました。 まだ汽車の通じない時分の事。……「・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方武生駅(越前へ留ったのです。強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減に教えてすましてしまうと、「うちの芸者も先生に教えていただきたいと言います」と言い出した。「面倒くさいから、厭だよ」と僕は答えたが、跡から思うと、その時からすでにその芸者は僕を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に表装して、私の Libraryのなかのもっとも価値あるものとして遺しておきましょうと申しました。それからその雑誌はだいぶ改良されたようであります。それ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ その年の暮れ、大雪が降って寒い晩に、からすは一つの厩を見つけて、その戸口にきて、うす暗い内をうかがい、一夜の宿を求めようと入りました。するとそこには白と黒のぶちの肥った牛がねていました。「おまえは、いつかのからすじゃないか。あのと・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・地の上には、二、三日前に降った大雪がまだ消えずに残っていました。空には、きらきらと星が、すごい雲間に輝いていました。 ここに憐れな年とった按摩がありました。毎晩のように、つえをついて、笛を鳴らしながら、町の中を歩いたのでした。按摩は、坂・・・ 小川未明 「海からきた使い」
出典:青空文庫