・・・だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗を大切にする、飲酒家は猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花の模様で、焼も余りよ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・を持ってきて、刑務所で預かる所持金の受取りをさせられた。捕かまる時、オレは交通費として現金を十円ほど持っていた。俺たちのように運動をしているものは、命と同じように「交通費」を大切にしている。――印を押そうと思って、広げられた帳面を見ると、俺・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と言って大切にしてくれる蜂谷ほどには、蜂谷の細君の受けも好くなくて、ややもすると機嫌を損ね易いということも、一層おげんの心を東京へと急がせた。この東京行は、おげんに取って久しく見ない弟達を見る楽しみがあり、その弟達に逢ってこれから将来の方針・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そのうちに思いがけない程の大雪がやって来た。戸を埋めた。北側の屋根には一尺ほども消えない雪が残った。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被らせられたように成った。灰色の空を通じて日が南の障子へ来ると、雪は光を含んでギラギラ輝く。軒から垂・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・千鳥の話が大切なからである。千鳥の話とは、唖のお長の手枕にはじまって、絵に描いた女が自分に近よって、狐が鼬ほどになって、更紗の蒲団の花が淀んで、鮒が沈んで針が埋まって、下駄の緒が切れて女郎蜘蛛が下って、それから机の抽斗から片袖が出た、その二・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ ことしのお正月は、日本全国どこでもそのようでしたが、この地方も何十年振りかの大雪で、往来の電線に手がとどきそうになるほど雪が積り、庭木はへし折られ、塀は押し倒され、またぺしゃんこに潰された家などもあり、ほとんど大洪水みたいな被害で、連・・・ 太宰治 「嘘」
・・・ × 関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。その日に、二・二六事件というものが起った。私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。 実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・ 御身体、大切に、 御奮闘祈ります。 あとは、ブランク。 こうして書き写していると、さすがに、おのずから溜息が出て来る。可憐なお便りである。もっともっと、頑張らなければなりません、という言葉が、三田君ご自身に就いて言っている・・・ 太宰治 「散華」
・・・ ことしの東京の雪は、四十年振りの大雪なのだそうですね。私が東京へ来てから、もうかれこれ十五年くらいになりますが、こんな大雪に遭った記憶はありません。 雪が溶けると同時に、花が咲きはじめるなんて、まるで、北国の春と同じですね。いなが・・・ 太宰治 「春」
・・・十二月のはじめ、三島に珍らしい大雪が降った。日の暮れかたからちらちらしはじめ間もなくおおきい牡丹雪にかわり三寸くらい積ったころ、宿場の六個の半鐘が一時に鳴った。火事である。次郎兵衛はゆったりゆったり家を出た。陣州屋の隣りの畳屋が気の毒にも燃・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫