・・・このおどろきの感情が脈々と私を歓喜に似た感情へ動かしたのであるが、今年の二月・三月は春になってからの大雪で、私が生活していた場所の薄暗く曲った渡り廊下の外の庇合には、東京に珍しく堆たかい雪だまりが出来たりしていた、その光景は変化のない日常の・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。泰平の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天の山三途の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。その許しもないのに死んで・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・所が、もう年が押し詰まって十二月二十八日となって、きのうの大雪の跡の道を、江戸城へ往反する、歳暮拝賀の大小名諸役人織るが如き最中に、宮重の隠居所にいる婆あさんが、今お城から下がったばかりの、邸の主人松平左七郎に広間へ呼び出されて、将軍徳川家・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・あれをしていると、大切な事を忘れてしまう。 ツァウォツキイはようよう鉄道の堤に攀じ上った。両方の目から涙がよごれた顔の上に流れた。顔の色は蒼ざめた。それから急にその顔に微笑の影が浮かんで、口から「ユリア、ユリア」と二声の叫が洩れた。ユリ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・自然に眼にふれ耳にはいってくることの方を大切にしたいと思っている。観察をすると有効な場合はあるが、観察したことのために相手が変化をしてしまうので、もう自然な姿は見られない。殊に何ものよりも一番大切な人の顔がそうである。誰からも尊敬されている・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・それで、とうとう学校が遅れて、着いてみたら、大雪を冠ったおれの教室は、雪崩でぺちゃんこに潰れて、中の生徒はみな死んでいました。もう少し僕が早かったら、僕も一緒でした。」 栖方は後で母にその小鳥の話をすると、そんな鳥なんかどこにもいなかっ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・べきこと、文芸を心の糧とすべきこと、その文芸も『万葉集』、『源氏物語』のごとき古典に親しむべきこと、連歌や歌の判のことなども心得べきこと、などを説いた後に、実践の問題に立ち入って、人を見る明が何よりも大切であることを教えている。全然王朝の理・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫