・・・海はここの下で入江になって居て、巖壁に穿たれた夥しい生簀の水に、淡い月の光と大洋の濤が暗く響いて来た。 裏手の障子をあけるとそこも直ぐ巖であった。その巖に葛の花が上の崖から垂れて居た。葛の花は終夜、砂地に立つ電燈の光を受けた。〔一九・・・ 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
・・・ 例えば、遠い大洋をへだてたあちこちの島々に、守備としてのこされた一団の兵士たちは、どういう経験をしただろう。食糧事情で恐るべき経験をしている。しかし、ただ、食うものがない辛苦をしのいだだけであったなら、それがどんなに酷かったにしろこれ・・・ 宮本百合子 「逆立ちの公・私」
・・・「こないだ太陽を見たら、君の役所での秩序的生活と芸術的生活とは矛盾していて、到底調和が出来ないと云ってあったっけ。あれを見たかね。」「見た。風俗を壊乱する芸術と官吏服務規則とは調和の出来ようがないと云うのだろう。」「なるほど、風・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・屋の如き浪を凌いで、大洋を渡ったら、愉快だろう。地極の氷の上に国旗を立てるのも、愉快だろうと思って見る。しかしそれにもやはり分業があって、蒸汽機関の火を焚かせられるかも知れないと思うと、enthousiasme の夢が醒めてしまう。 木・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・もし佐橋甚五郎が事に就いて異説を知っている人があるなら、その出典と事蹟の大要とを書いて著者の許に投寄してもらいたい。大正二年三月記。 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・ 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。 種蓮華を叩く音だけが、幽・・・ 横光利一 「蠅」
・・・が、事実問題として、ああいう美しさが六月の太陽に照らされたほの暑い農村の美しさのすべてであるとは言えないであろう。小林氏にしてもあれ以外に多くの色や光や運動の美しさを認めたであろう。しかし氏はその内から一の情趣をつかんだ。そうしてそれを描き・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫