・・・それからまた、ずっと長い時間がたった……。目が醒めた時、重吉はまだベンチにいた。そして朦朧とした頭脳の中で、過去の記憶を探そうとし、一生懸命に努めて見た。だが老いて既に耄碌し、その上酒精中毒にかかった頭脳は、もはや記憶への把持を失い、やつれ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・考えてはいたらしいが、その考の題目となっていたものは、よし、その時私がハッと気がついて「俺はたった今まで、一体何を考えていたんだ」と考えて見ても、もう思い出せなかった程の、つまりは飛行中のプロペラのような「速い思い」だったのだろう。だが、私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・私もしばしば試みたけれども、十数回のうちで、たった一度しか成功しなかった。 響灘は玄海灘とつづいているが、白島付近は魚と貝類の宝庫だ。そこへ二、三年前、一月の寒い風に吹かれながら、ソコブク釣りに出かけた。河豚のおいしいのは十二月から一月・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・お手紙はたった四度しか参りませんでした。それから勲章をお貰いになったお祝を申上げた時、お葉書を一度下さいましたっけ。それにわたくしはどうでございましょう。 わたくしはあなたの記念を心の隅の方に、内証で大切にしまって置いて、昔のようになん・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・今この世の暇を取らせる事じゃから、たった一度本当の生活というものを貴ばねばならぬ事を、其方に教えて遣わそう。あっちに行って黙って立っていてここの処を好く見て、凡そこの世に生きとし生けるものは、皆な慈愛を持っているのに、其方一人がうつろな心で・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・「あのね、すぐなくなるって。地図に入れなくてもいいって。あんなもの地図に入れたり消したりしていたら、陸地測量部など百あっても足りないって。おや! 引っくりかえってらあ」「たったいま倒れたんだ」歩哨は少しきまり悪そうに言いました。・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・例えば親子間の愛――この世にたった一つしかないいきさつですらも、どれだけ円満にいっていましょう。愛と平和――それは今の経済学、哲学とかの学問で説明したり、解剖したりする論理としての論理でなく、皆の分かり切った常識として、人間の生活に自由なも・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・「どうもお前はこの上もない下等な人間だな。たった一人の子を打ちに、ここからわざわざ帰って行く奴があるか。」 ツァウォツキイは黙っていた。それでも押丁がまた小刀を胸に挿してやった時は、溜息を衝いた。 押丁はツァウォツキイの肩を掴んで、・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「安次、行くぞ。」勘次は云った。「お前ひとりで行って来てくれんかよ。」「お前、行かにゃ何んにもならんが。」「もうお前、ひ怠るてひ怠るて歩けるか。」「たったそこまでやないか、向うまで行ったら締めたもんや。お前図々しい構えて・・・ 横光利一 「南北」
・・・冬寒くなってから、こんな所にたった一人でいては。」 エルリングは、俯向いたままで長い螺釘を調べるように見ていたが、中音で云った。「冬は中々好うございます。」 己はその顔を見詰めて、首を振った。そして分疏のように、こう云った。「余・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫