・・・主の口と盆の上へ、若干かお鳥目をはずんで、小宮山は紺飛白の単衣、白縮緬の兵児帯、麦藁帽子、脚絆、草鞋という扮装、荷物を振分にして肩に掛け、既に片影が出来ておりますから、蝙蝠傘は畳んで提げながら、茶店を発つて、従是小川温泉道と書いた、傍示杭に・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・もうちと経つと、花曇りという空合ながら、まだどうやら冬の余波がありそうで、ただこう薄暗い中はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累なると、ちらちら白いものでも交りそうな気勢がする。……両三日。 今朝は麗かに晴・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経つと、それっきりになる事もあるからね。」 辻町は向直っていったのである。「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可訝いかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の瓢・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自ら振作するの勇気は、もって笑いつつ天災地変に臨むことができると思うものの、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考えても事に対する処決は単純を許さない。思慮分別の意識か・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ といって先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下にある物を認めた。自分はすぐそれと気づいて見ると、果たして亡き人の着ていた着物であった。ぐっしゃり一まとめに土塊のように置いてあった。「これが奈々ちゃんの着物だね」「あァ」 ふた・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・不断も加賀染の模様のいいのなんか着せていろいろ身ぎれいにしてやるので誰云うともなく美人問屋と云ってその娘を見ようと前に立つ人はたえた事がない、丁度年頃なのであっちこっちからのぞみに母親もこの返事に迷惑して申しのべし、「手前よろしければかねて・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてしまう。自分は自分で、楯とするものがない。」「そこになると、もう、僕等の到底想像出来ないことだ。」「実際、君、そうや。」「わたしは何度も聴・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・は、井筒屋のお貞(その時は、まだお貞の亭主の思いやりで、台どころ道具などを初め、所帯を持つに必要な物はほとんどすべて揃えてもらい、飯の炊き方まで手を取らないまでにして世話してもらったのであるが、月日の経つに従い、この新夫婦はその恩義を忘れた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・むしろ断然関係を断つ方が僕のためだという忠告だ。僕の心の奥が絶えず語っていたところと寸分も違わない。 しかし、僕も男だ、体面上、一度約束したことを破る気はない。もう、人を頼まず、自分が自分でその場に全責任をしょうよりほかはない。 こ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ ほかにも芸者のはいりに来ているのは多いが、いつも目に立つのはこの女がこの男と相対してふざけたり、笑ったりしていたことである。はじめはこの男をひいきのお客ぐらいにしか僕は思っていなかったが、石鹸事件を知ったので、これは僕の恋がたきだと思・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫