・・・私はいかなる卓越した才能あり、功業をとげたる人物であっても、彼がもしこの態度において情熱を持っていないならば決して尊敬の念を持ち得ないものである。その人生における職分が政治、科学、実業、芸術のいずれの方面に向かおうとも、彼の伝記が書かれると・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・その青年鑑賞の目は信頼するに足るであろうか。反対に青年たちの娘たちへのそれはどうであろうか。ある青年がどんな娘を好むかはその青年の人生への要求をはかる恰好の尺度である。美しくて、常識があって、利口に立ち働けそうな娘を好むならその青年の人物は・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 二重硝子の窓の外には、きつきつたる肌ざわりの荒い岩のような、黒竜江の結氷が星空の下に光っていた。 番小屋は、舟着場から、約一露里上流にあって建てられていた。夏は、対岸から、踵の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・君の熔金の廻りがどんなところで足る足らぬが出来るのも同じことである。万一異なところから木理がハネて、釣合を失えば、全体が失敗になる。御前でそういうことがあれば、何とも仕様は無いのだ。自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・サア、まことの糟糠の妻たる夫思いの細君はついに堪えかねて、真正面から、「あなたは今日はどうかなさったの。」と逼って訊いた。「どうもしない。」「だって。……わたしの事?」「ナーニ。」「それならお勤先の事?」「ウウ、・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・人をしてなるほどと首肯点頭せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、またそれは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色の慾が足り、少しの閑暇があり、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしてもそれ・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・なかでも、わたくしの老いたる母は、どんなに絶望の刃に胸をつらぬかれたであろう。 されど、今のわたくし自身にとっては、死刑はなんでもないのである。 わたくしが、いかにしてかかる重罪をおかしたのであるか。その公判すら傍聴を禁止された今日・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・多くは其個個が有せる迷信・貪欲・愚癡・妄執・愛着の念を払い得難き性質・境遇等に原因するのである、故に見よ、彼等の境遇や性質が若し一たび改変せられて、此等の事情から解脱するか、或は此等の事情を圧倒するに足るべき他の有力なる事情が出来する時には・・・ 幸徳秋水 「死生」
秀吉金冠を戴きたりといえども五右衛門四天を着けたりといえども猿か友市生れた時は同じ乳呑児なり太閤たると大盗たると聾が聞かば音は異るまじきも変るは塵の世の虫けらどもが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・原はこれから家を挙げて引越して来るにしても、角筈か千駄木あたりの郊外生活を夢みている。足ることを知るという哲学者のように、原は自然に任せて楽もうと思うのであった。 美しい洋傘を翳した人々は幾群か二人の側を通り過ぎた。互に当時の流行を競い・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫