・・・それがある事情のため断然英国を後にして単身日本へ来る気になられたので、余らの教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇国語を使って講義やら説明やら談話やらを見境なく遣られた。それがため同級生は悉く辟易の体で、ただ烟に捲かれるのを生徒の分と・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ともに国を守るに足らざるものなれば、いやしくも国を思うの丹心あらんものは、内外の政治に注意せざるべからず。 政治の事、はなはだ大切なりといえども、これは人民一般普通の心得にして、ここに政治家と名づくるものは、一家専門の業にして、政権の一・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・は、努ゆめゆめ吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・ ○時計で南北を知るには、直射光線にうつる短針のかげをかさね、十二時とそれとの中央を南とし、正反対を北。 ○列車の速力は、二十二秒半にこすレールのつぎめの数が時数。 ドイツに Wanderlied の多いこと Faust でさえ・・・ 宮本百合子 「一九二三年夏」
・・・真白い面に鮮やかな黒字で書かれた数字や、短針長針が、狭い角度で互に開いていた形が、奇妙にはっきり印象に遺った。驚いて、一寸ぼんやりした揚句なので却って時計の鮮明な文字が、特殊な感銘を与えたのだろう。 知ろうともしなかった此時間の記憶は後・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
・・・ 権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。「数馬はどうじゃった」「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」「さようか。皆のものに庭へ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫