・・・廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。 私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。 その日その日を引きずられて暮しているだけであった。下宿屋で、たった独りして酒を飲み、独りで酔い、そ・・・ 太宰治 「葉」
・・・「いくらもありゃしませんけれどな、お金なぞたんと要らん思う。私はこれで幸福や」そう言って微笑していた。 もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん憂鬱ではなかったけれど、若い女のもっている自由な感情は、いくらか虐げられ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・それにたんともないさかえ、こんなものなら一枚看板でも目立たんで、いいと思って」 道太は一反買ってやってもいいと思ったけれど、何か意味があるように思われるのが厭なので、わざと言わないでいた。「僕も何かお礼をしなけあならんけれど、いずれ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・またある人は意志を多く働かし得る意識の連続を希望する結果百姓になったり、車引になったり――これはたんとないかも知れぬが、軍をしたり、冒険に出たり、革命を企てたりするのは大分あるでしょう。 かく人間の理想を三大別したところで、我々、すなわ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」「困るなアどうも」「なに、よござんすよ。覚えておいでなさいよ。今日は昼間遊んでおいでなさるんでしょう」「なに、そういうわけでもない」「去らないでおいでなさいよ、後で遊びに行きます・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・わたくしは、ばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。 日はもう落ちて空は青く古い池のようになっていました。そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。 わたくしどもはもう競馬場のまん中を横截っ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・私なんか御師匠はんとけいくにいつでもさしてますワ、模様をたんとかいてナ」「貴女何ならってらっしゃるの」「鼓と琴と茶の湯と花と」「マア、そんなにならって一日の内にみんななさるの」 私は自分にくらべて随分いろんな事をするもんだと・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・扉をどたんばたんと鳴らす音が聞えた。誰かが屋敷内で馬の手綱をひいて駈けて行く。老婆が、本会堂へ泥棒が入ったんだよ、と怒鳴る。主人がそれを制し、『おっ母さん怒鳴るなよ。あれは警鐘じゃないよ!』 主人の弟ヴィクトルが寝棚から降りて来て、・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・それは母って云う人は一体理性のかった人で(但し恐っ(可愛そうで泣きたいように私の思う事でも世の中にはたんとあるこったものと云う人であるに引きかえ、私は泣きたければすぐ泣く、笑いたければすぐ笑う。私の感情はすぐに顔や口振にあらわれて来る。だか・・・ 宮本百合子 「妙な子」
・・・ と勘次の母が顔を曇らせて云いかけると、安次は行司が軍扇を引くときのような恰好で、「心臓や、医者がお前、もう持たんと云いさらしてさ。」「どうしてまたそんなになったんやぞ?」「酒桶から落ってのう。亀山で奉公して十五円貰うてたの・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫