・・・が、鍛冶町へも来ないうちにとうとう読書だけは断念した。この中でも本を読もうと云うのは奇蹟を行うのと同じことである。奇蹟は彼の職業ではない。美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者なるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ…… 枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴びたように肝まで寒くした。――大川も堀も近い。……ついぞ愚痴などを言った事のない祖母だ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 御存じの方は、武生と言えば、ああ、水のきれいな処かと言われます――この水が鐘を鍛えるのに適するそうで、釜、鍋、庖丁、一切の名産――その昔は、聞えた刀鍛冶も住みました。今も鍛冶屋が軒を並べて、その中に、柳とともに目立つのは旅館であります・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・この、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想い出した。…… 雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。「漕げ。」 紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。 一度、駆下りよ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・外套氏のいう処では、道の途中ぐらい、麓の出張った低い磧の岸に、むしろがこいの掘立小屋が三つばかり簗の崩れたようなのがあって、古俳句の――短夜や川手水――がそっくり想出された。そこが、野三昧の跡とも、山窩が甘い水を慕って出て来るともいう。人の・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・、一番草も今日でお終いだから、おとッつぁん、熱いのに御苦労だけっと、鎌を二三丁買ってきてくるっだいな、此熱い盛りに山の夏刈もやりたいし、畔草も刈っねばなんねい……山刈りを一丁に草刈りを二丁許り、何処の鍛冶屋でもえいからって。 おやじがこ・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ 夏の短夜は、やがて明け初めて来た。が、寿子は依然として弾いている。蚊帳の中の庄之助は鉛のような沈黙を守っている。余りだまっているので、寿子は、父はもう眠ってしまったのかも知れぬと、思った。が、それでも弾いていると、いきなり、「出来・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・何度も建てなおされた家で、ここでは次男に鍛冶屋させるつもりで買ってきて建てたんだが、それが北海道へ行ったもんで、ただうっちゃらかしてあるんでごいす。これでも人がはいってピンと片づけてみなせ、本当に見違えるようになるで……」 久助爺はけろ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ そこで文公はやっと宿を得て、二人の足のすそに丸くなった。親父も弁公も昼間の激しい労働で熟睡したが文公は熱と咳とで終夜苦しめられ、明け方近くなってやっと寝入った。 短夜の明けやすく、四時半には弁公引き窓をあけて飯をたきはじめた。親父・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌持てる若者の一人答えて訝しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面作りつ、また急ぎゆけり。右は畑、左は堤の上を一列に老・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫