・・・ 見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃が馬の蹄、車の轍に煽られて虚空に舞い上がる。蝿の群が往来を横ぎって家から家、馬から・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・てよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち雑りたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚敷きて童と猫と仲よく遊べる、茅屋の軒先には羽虫の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶の鉄砧の音高く響きて夕闇に閃く火花の・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りて憩う。湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ たちまち姿は見えずなって、四五軒先の鍛冶屋が鎚の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、「ハテナ、近所の奴に貸た銭でもあるかしらん。知人も無さそうだし、貸す風でもねえが。と独語つところへ、うッそりと来・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・小山の家は町の鍛冶屋だ。チョン髷を結った阿爺さんが鍛ってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成あるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。 不思議な風体の百姓が出来上った。高瀬は頬冠り、尻端折りで、股引も穿・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「短夜だ」 と呟いて、復た相川は蚊帳の内へ入った。 翌日、原は午前のうちに訪ねて来た。相川の家族はかわるがわる出て、この珍客を款待した。七歳になる可愛らしい女の児を始め、四人の子供はめずらしそうに、この髭の叔父さんを囲繞いた。・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・幅の広い鉄で鍛えたような鍛冶職の手である。ただそれが年の寄ったのと、食物に饑えたのとで、うつろに萎びている。その手を体の両側に、下へ向けてずっと伸ばしていよいよ下に落ち付いた処で、二つの円い、頭えている拳に固めた。そして小さく刻んだ、しっか・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と言って、急いで上手な鍛冶屋をおよびになりました。けれどもその鍛冶屋には、第一、お城の門の錠前にはまる鍵がどうしても作れませんでした。しまいには国中の鍛冶屋という鍛冶屋がみんな出て来ましたが、だれ一人その鍵をこしらえるものがありませんでした・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・嘘だと思うなら、橋のそばの鍛冶屋の笠井三郎のところへ行って聞いて見ろ。あの男は、俺の事なら何でも知っている。鉄砲撃ちの平田と言えば、この地方の若い者は、絶対服従だ。そうだ、あしたの晩、おい文学者、俺と一緒に八幡様の宵宮に行ってみないか。俺が・・・ 太宰治 「親友交歓」
出典:青空文庫