・・・ 一人の青年はビールの酔いを肩先にあらわしながら、コップの尻でよごれた卓子にかまわず肱を立てて、先ほどからほとんど一人で喋っていた。漆喰の土間の隅には古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・それは大阪の市が南へ南へ伸びて行こうとして十何年か前までは草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまい、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさんできて、野原の名残りが年ごとに・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・差し向いたる梅屋の一棟は、山を後に水を前に、心を籠めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなたを向きて立てる一人の乙女あり。かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・もっともこの二人は、それぞれ東京で職を持って相応に身を立てていますから、年に二度三度会いますが、私とは方面が違うので、あまり親しく往来はしないのです。けれども、会えばいつも以前のままの学友気質で、無遠慮な口をきき合うのです。この日も鷹見は、・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・この港の工事なかばなりしころ吾ら夫婦、島よりここに移りてこの家を建て今の業をはじめぬ。山の端削りて道路開かれ、源叔父が家の前には今の車道でき、朝夕二度に汽船の笛鳴りつ、昔は網だに干さぬ荒磯はたちまち今の様と変わりぬ。されど源叔父が渡船の業は・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・』という声が自分のすぐ前でしたと思うと自分とすれ違って、一人の男がよろめきながら『腰の大小伊達にゃあささぬ、生意気なことをぬかすと首がないぞ!』と言って『あははははッ』と笑ッた。自分は驚いて、振り向いて見ると、霧をこめておぼろな電気燈の光が・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・も一つはたとい多少の無理を含んでいても、進化してきた人間の理想として、男女の結合の精神的、霊的指標として打ち立て、築き守って、行くべきものであるということである。 生命の法則についての英知があって、かつ現代の新生活の現実と機微とを知って・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・法の建てなおしと、国の建てなおしとが彼の使命の二大眼目であり、それは彼において切り離せないものであった。彼及び彼の弟子たちは皆その法名に冠するに日の字をもってし、それはわれらの祖国の国号の「日本」の日であることが意識せられていた。彼は外房州・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知らず/\素直におど/\した返事をした。「そのまゝこっちへ来い。」 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 番小屋は、舟着場から、約一露里上流にあって建てられていた。夏は、対岸から、踵の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような薄い絹の靴下や、竹の骨を割った日傘が、舟で内密で持ちこまれてくる。ここは、流れが最も緩慢であった。そし・・・ 黒島伝治 「国境」
出典:青空文庫