序 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ それでも妙なもので、二段三段ときいてゆくうちに、「黒髪のみだれていまのものおもい」だの、「夜さこいと云う字を金糸でぬわせ、裾に清十郎とねたところ」だのと云う、なまめいた文句を、二の上った、かげへかげへとまわってゆく三味線の音につれて、・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・すぐ飛び出そうとしたけれども、はだしだと足をけがしておそろしい病気になるとおかあさんから聞いていたから、暗やみの中で手さぐりにさぐったら大きなぞうりがあったから、だれのだか知らないけれどもそれをはいて戸外に飛び出した。戸外も真暗で寒かった。・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・はてなと思って見回しましたがだれも近くにいる様子はないから羽をのばそうとしますと、また同じように「燕、燕」とよぶものがあります。燕は不思議でたまりません。ふと王子のお顔をあおいで見ますと王子はやさしいにこやかな笑みを浮かべてオパールというと・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 北をさすを、北から吹く、逆らう風はものともせねど、海洋の濤のみだれに、雨一しきり、どっと降れば、上下に飛かわり、翔交って、かあ、かあ。 ひょう、ひょう。かあ、かあ。 ひょう、ひょう。かあ、かあ。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・思切って、ぺろ兀の爺さんが、肥った若い妓にしなだれたのか、浅葱の襟をしめつけて、雪駄をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 富士のすそ野を見るものはだれもおなじであろう、かならずみょうに隔世的夢幻の感にうたれる。この朝予は吉田の駅をでて、とちゅう畑のあいだ森のかげに絹織の梭の音を聞きつつ、やがて大噴火当時そのままの石の原にかかった。千年の風雨も化力をくわう・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・いやしくも文芸にたずさわる以上、だれでもぜひ一所懸命になってこれに全精神を傾倒せねばだめであるとはいわない。人生上から文芸を軽くみて、心の向きしだいに興を呼んで、一時の娯楽のため、製作をこころみるという、君のようなやり方をあえて非難するまで・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・海に千年、山に千年の老巧手だれの交際上手であったが、人の顔色を見て空世辞追従笑いをする人ではなかった。 淡島家の養子となっても、後生大事に家付き娘の女房の御機嫌ばかり取る入聟形気は微塵もなかった。随分内を外の勝手気儘に振舞っていたから、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・いくらヤキモキ騒いだって海千山千の老巧手だれの官僚には歯が立たない、」と二葉亭は常に革命党の無力を見縊り切っていた。欧洲戦という意外の事件が突発したためという条、コンナに早く革命が開幕されて筋書通りに、トいうよりはむしろ筋書も何にもなくて無・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
出典:青空文庫