・・・ 誰が与えられた時を知り、その動揺を知覚し得よう。けれども在る事は事実である。無くては居られない。持たずには居られない。その、神秘的な液体と倶に、人を産んだ「祖国の気分」も生きて居るのではないだろうか、私は、今更に背後の重さを感じずには・・・ 宮本百合子 「無題」
・・・ 長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎めもありそうな失錯をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それと同じように、余所目には痩せて血色の悪い秀麿が、自己の力を知覚していて、脳髄が医者の謂う無動作性萎縮に陥いらねば好いがと憂えている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽っているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・そのうちに彼誰時が近くなった。その時馬がたちまち駆歩になって、車罔は石に触れて火花を散らした。ツァウォツキイは車の小さい穴から覗いて見た。馬車は爪先下りの広い道を、谷底に向って走っている。谷底は薔薇色の靄に鎖されている。その早いこと飛ぶよう・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・和女とて一わたりは武芸をも習うたのに、近くは伊賀局なんどを亀鑑となされよ。人の噂にはいろいろの詐偽もまじわるものじゃ。軽々しく信ければ後に悔ゆることもあろうぞ」 言いきって母は返辞を待皃に忍藻の顔を見つめるので忍藻も仕方なさそうに、挨拶・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・この花園の中でただ無為に空と海と花とを眺めながら、傍近く寄るものが、もしも五月の微風のように爽かであったなら、そこに柔かな愛慾の実のなることは明かな物理である。しかし、ここの花園では愛恋は毒薬であった。もしも恋慕が花に交って花開くなら、やが・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・それに海近く棲んでいる人種の常で、秘密らしく大きく開いた、妙に赫く目をしている。 己はこの国の海岸を愛する。夢を見ているように美しい、ハムレット太子の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地の好さそうな田・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ いつかはまた、ちょっとした子供によくある熱に浮されて苦しみながら、ひるの中は頻りに寐反りを打って、シクシク泣ていたのが、夜に入ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を覚すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし霜月の雨のビ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ シモンズの書いた所によると、デュウゼは自分の好きな人と話をする時には、椅子から立ち上がって、その人のそば近くに腰を掛け、ほとんど顔が相触るるまで接近して、眼は広く見開く。大きな鳶色の瞳を囲んでいる白い所がすっかりと見えるほどだ。時々身・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・しかしそれは彼の根が一つの地殻に突き当たってそれを突破する努力に悩んでいるからである。やがてその突破が実現せられた時に、どのような飛躍が彼の上に起こるか。――私は彼の前途を信じている。根の確かな人から貧弱な果実が生まれるはずはない。・・・ 和辻哲郎 「樹の根」
出典:青空文庫