・・・じっと竦んで、右を見、左を眺め廻した末、子供は恐ろしさに我慢が出来なくなって、涙をこぼし泣き乍ら、小さい拳で、広い地層を叩き出した。「よう! よーお!」 両方の絶壁は子供の感情を知った。憐れに思い、何とかしてやりたく思う。泣声は次第・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・烈しい力で地層を掻きむしられたように、平らな部分、土や草のあるところなど目の届く限り見えず、来た方を振りかえると、左右の丘陵の巓に、僅か数本の躑躅が遅い春の花をつけているばかりだ。森としている。硫黄の香が益々強い。 自然の圧迫を受け、黙・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・この高台は、昔東京の海がずっと深く浅草附近まで入りこんでいたそれより昔、武蔵野の突端をなして、海へきっ立っていた古い地層である。 低地にひろがった尾久方面も、高台も、今は一面の焼け野原となっていた。アスファルトの道ばたには、半分焦げのこ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・知県の官舎で休んで、馳走になりつつ聞いてみると、ここから国清寺までは、爪尖上がりの道がまた六十里ある。往き着くまでには夜に入りそうである。そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。 翌朝知県に送られて出た。きょうもきのうに変らぬ天気である。・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・席上には酒肴を取り寄せ、門人等に馳走した。然るに門人中坐容を崩すものがあったのを見て、大喝して叱した。遊所に足を容るることをば嫌わず、物に拘らぬ人で、その中に謹厳な処があった。」 森鴎外 「細木香以」
・・・「なんでも江戸の坊様に御馳走をしなくちゃあならないというので、蕎麦に鳩を入れて食わしてくれたっけ。鴨南蛮というのはあるが、鳩南蛮はあれっきり食った事がねえ。」「そうしていると打毀という奴が来やがった。浪人ものというような奴だ。大勢で・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・ そのうち刀が出来て来たので、伊織はひどく嬉しく思って、あたかも好し八月十五夜に、親しい友達柳原小兵衛等二三人を招いて、刀の披露旁馳走をした。友達は皆刀を褒めた。酒酣になった頃、ふと下島がその席へ来合せた。めったに来ぬ人なので、伊織は金・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・「なるほど酒は御馳走になる。しかしお肴が饂飩と来ては閉口する。お負にお講釈まで聞せられては溜まらない。」 主人はにやにや笑っている。「一体仏法なぞを攻撃しはじめたのは誰だろう。」「いや。説法さえ廃して貰われれば、僕も謗法はしない・・・ 森鴎外 「独身」
・・・夏の日に私は一度君を尋ねて、ラムネを馳走せられたことがある。 年の暮に鍛冶町の家主が急に家賃を上げたので、私は京町へ引き越した。いとぐるまの音のする家から、太鼓の音のする家に移ったのである。京町は小倉の遊女町の裏通になっていて、絶えず三・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・したがって「善きことをほめるは道理と思ひ、悪しきことをほめるは、我への馳走、時の挨拶と心得る」。しかるに、人によると、悪しきことをもほめる者を軽薄者として怒るのがある。これはばかである。一家中に、主君に直言するごとき家来は、五人か三人くらい・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫