・・・千筋の縮みの襯衣を着た上に、玉子色の薄い背広を一枚無造作にひっかけただけである。始めから儀式ばらぬようにとの注意ではあったが、あまり失礼に当ってはと思って、余は白い襯衣と白い襟と紺の着物を着ていた。君が正装をしているのに私はこんな服でと先生・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・朝風は颯と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。 七 忍が岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽が際立ッて映ッている。入谷はなお半分靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・わたくしの心の臓は痙攣したように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせられたと思った時の苦しさはなんでもございません。わたくしの美しい夢はこのとき消えて・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・お前の絃の音はあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を見ると、体中が縮み上るような心持がするのはどうしたものだ。それに何だか咽が締るようで、髪の毛が一本一本上に向いて立つような心持がする。どうぞ帰ってくれい。お前は死だな。ここに何の用がある。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・当時の権力はまんなかに治安維持法の極端な殺人的操法をあらわに据えて、それで嚇し嚇し、一方では正直に勇敢だった人々を益々強固な抵抗におき、孤立させ、運動を縮みさせ、他面では、すべての平凡な心情を恐怖においたてて、根本は治安維持法に対するその恐・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・ 私は縮み上った。 そして、此那気味が悪いのに何故来たのかと云う気持にもなりながら、矢張り怖わいもの見たさで、少し隙き間の出来て居た襖の陰にぴったり貼り付いて中をのぞいた。 部屋の中は平常叔父の使って居たのとは違って大きい光った・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・ その中でも、最も皆を縮み上らせたのは、湯殿の化粧台のそばに落ちて居た一枚の「ぼろ」であった。 うす黄い、疎な木綿の二尺ほどの布は、何か包んで居たらしく皺になって、所々に金物の錆が穢らしくついて居る。 何か金物を包んで来たのだと・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・ 道理の有無に関らず、彼等を一竦みに縮み上らせるのは、訴えてやるぞという言葉である。 まるで証拠のないことを、若し若旦那が、ええ誰かが後から突落したのを知っていますとでも云えば、いったい俺等は何で、そうでないという明しを立てるのだ。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・東京に居て他家へ行ったり来られたりしてすごす七草まで位の日は大変早く、目まぐるしいほどで立って行くけれ共、此処の一日は、時間にのび縮みはない筈ながら、ゆるゆると立って行く。 東京の急がしい渦が巻き来まれて、暇だとは云いながら一足門の外へ・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫