・・・ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼は始こう書いたが、すぐにまた紙を裂いて、「ハハビョウキ、スグ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・僕の病はS博士によれば早発性痴呆症ということです。しかしあの医者のチャックは僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。医者のチャックも来るくらいですから、学生のラップや哲学者のマッグの・・・ 芥川竜之介 「河童」
島木さんに最後に会ったのは確か今年の正月である。僕はその日の夕飯を斎藤さんの御馳走になり、六韜三略の話だの早発性痴呆の話だのをした。御馳走になった場所は外でもない。東京駅前の花月である。それから又斎藤さんと割り合にすいた省・・・ 芥川竜之介 「島木赤彦氏」
・・・「早発性痴呆と云うやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音の前にお時宜をしていました」「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄目ですよ」「兄さんは僕などよ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・彼はしょうことなしに監督の持って来た東京新聞の地方版をいじくりまわしていた。北海道の記事を除いたすべては一つ残らず青森までの汽車の中で読み飽いたものばかりだった。「お前は今日の早田の説明で農場のことはたいてい呑みこめたか」 ややしば・・・ 有島武郎 「親子」
・・・―― ところで、いま言った古小路は、私の家から十町余りも離れていて、縁で視めても、二階から伸上っても、それに……地方の事だから、板葺屋根へ上ってしても、実は建連った賑な町家に隔てられて、その方角には、橋はもとよりの事、川の流も見えないし・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・主人の姉――名はお貞――というのが、昔からのえら物で、そこの女将たる実権を握っていて、地方有志の宴会にでも出ると、井筒屋の女将お貞婆さんと言えば、なかなか幅が利く代り、家にいては、主人夫婦を呼び棄てにして、少しでもその意地の悪い心に落ちない・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ こうして、それから四、五年の後には、牛女の子供は、この地方での幸福な身の上の百姓となったのであります。 小川未明 「牛女」
俳優というものは、如何いうものか、こういう談を沢山に持っている、これも或俳優が実見した談だ。 今から最早十数年前、その俳優が、地方を巡業して、加賀の金沢市で暫時逗留して、其地で芝居をうっていたことがあった、その時にその・・・ 小山内薫 「因果」
出典:青空文庫