・・・ わが水兵はいかに酔っていても長官に対する敬礼は忘れない。彼らは自分を見るや一同起立して敬礼を行なう、その態度の厳粛なるは、まだ十二分に酔っていないらしい。中央に構えていた一人の水兵、これは酒癖のあまりよくないながら仕事はよくやるので士・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ すると、一人の十二、三の少年が釣竿を持って、小陰から出て来て豊吉には気が付かぬらしく、こなたを見向きもしないで軍歌らしいものを小声で唱いながらむこうへ行く、その後を前の犬が地をかぎかぎお伴をしてゆく。 豊吉はわれ知らずその後につい・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・富岡老人釣竿を投出してぬッくと起上がった。屹度三人の方を白眼で「大馬鹿者!」と大声に一喝した。この物凄い声が川面に鳴り響いた。 対岸の三人は喫驚したらしく、それと又気がついたかして忽ち声を潜め大急ぎで通り過ぎて了った。 富岡老人はそ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・治まる聖代のありがたさに、これぞというしくじりもせず、長わずらいにもかからず、長官にも下僚にも憎まれもいやがられもせず勤め上げて来たのだ。もはやこうなれば、わしなどはいわゆる聖代の逸民だ。恩給だけでともかくも暮らせるなら、それをありがたく頂・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ただこの場合において一、二の注意を述べるなら、職能に関する読書はその部門の全般にわたる鳥瞰が欠くべからざるものであるが、そのあいだにもおのずと自分の特に関心し、選ぶ種目への集注的傾向が必要である。何事かを好み、傾くということがそのことへの愛・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・だって布袋竹の釣竿のよく撓う奴でもってピューッと一ツやられたのだもの。一昨々日のことだったがね、生の魚が食べたいから釣って来いと命令けられたのだよ。風が吹いて騒ついた厭な日だったもの、釣れないだろうとは思ったがね、愚図愚図していると叱られる・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・黒鯛ならああいう竿で丁度釣れますのです。釣竿の談になりますので、よけいなことですがちょっと申し添えます。 或日のこと、この人が例の如く舟に乗って出ました。船頭の吉というのはもう五十過ぎて、船頭の年寄なぞというものは客が喜ばないもんであり・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 自分は自分のシカケを取出して、穂竿の蛇口に着け、釣竿を順に続いで釣るべく準備した。シカケとは竿以外の綸その他の一具を称する釣客の語である。その間にチョイチョイ少年の方を見た。十二、三歳かと思われたが、顔がヒネてマセて見えるのでそう思う・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・この兄弟の家の周囲には釣竿一本売る店がありませんでしたから。 お爺さんは何処からか釣針を探して来ました。それから細い竹を切って来まして、それで二本の釣竿を造りました。「針と竿が出来ました。今度は糸の番です。」とお爺さんは言って、栗の・・・ 島崎藤村 「二人の兄弟」
・・・井伏さんが本心から釣が好きということについては、私にもいささか疑念があるのだが、旅行に釣竿をかついで出掛けるということは、それは釣の名人というよりは、旅行の名人といった方が、適切なのではなかろうかと考えて居る。 旅行は元来手持ち無沙汰な・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫