一 道太が甥の辰之助と、兄の留守宅を出たのは、ちょうどその日の昼少し過ぎであった。彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・しかしその後幾星霜を経て、大正六、七年の頃、わたくしは明治時代の小説を批評しようと思って硯友社作家の諸作を通覧して見たことがあったが、その時分の感想では露伴先生の『らんげんちょうご』と一葉女史の諸作とに最深く心服した。緑雨の小説随筆はこれを・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・朝に向い夕に向い、日に向い月に向いて、厭くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞ありとは夢にだも知らず。湛然として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗たる面を過ぐる森羅の影の、繽・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・遠乗をもって細君から擬せられた先生は実に普通の意味において乗るちょう事のいかなるものなるかをさえ解し得ざる男なり、ただ一種の曲解せられたる意味をもって坂の上から坂の下まで辛うじて乗り終せる男なり、遠乗の二字を承って心安からず思いしが、掛直を・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・と言えば山嶮しからず、「ぜっちょう」と言えば山嶮しく感ぜらる。 漢語を用いていかめしくしたる句蚊遣してまゐらす僧の座右かな売卜先生木の下闇の訪はれ顔「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生」と言えば「卜・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからす・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・波がちょうど減いたとこでしたから磨かれたきれいな石は一列にならんでいました。「こんならもう穴石はいくらでもある。それよりあのおっ母の云ったおかしなものを見てやろう。」タネリはにがにが笑いながらはだしでそのぬれた砂をふんで行きました。すると、・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・と大きな声で一人ごちて道のまんなかに突ったってちょうちんや幕のはなやかにかざってあるのを見まわして居る。人力が来た。リンをチリンチリンとならして走って来た。彼はつんぼだからきこえないのだろう、まだぼんやりと見まわして居る。私は大急で走けつけ・・・ 宮本百合子 「心配」
・・・同じく大統領候補者のウォーレスは、「戦争ちょう発はアメリカ人民自身の幸福を破壊するものである」と。こうしてみると戦争ちょう発の舞台で二人の主人公のように扱われているアメリカもソヴェトもまたつづけて血なまぐさい騒動をくり返してみたとこ・・・ 宮本百合子 「世界は平和を欲す」
・・・城内から帰った本多は、ちょうど着換えが済んで休息している呂祐吉に、宗をもってそれとなく問わせた。きょうお目見えをした者の中に大御所のお見知りになっている人はなかったかと問わせたのである。通事の取り次いだ返答は、いっこうに存ぜぬということであ・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫