一 ある春の午過ぎです。白と云う犬は土を嗅ぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣が続き、そのまた生垣の間にはちらほら桜なども咲いています。白は生垣に沿いながら、ふとある横町へ曲りました。が、そ・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・が、それだけまた心配なのは、今夜逢いに来るお敏の身の上ですから、新蔵はすぐに心をとり直すと、もう黄昏の人影が蝙蝠のようにちらほらする回向院前の往来を、側目もふらずまっすぐに、約束の場所へ駈けつけました。所が駈けつけるともう一度、御影の狛犬が・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……その柳の下を、駈けて通る腕車も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜を浮れ出したような状だけれども、この土地ではこれでも賑な町の分。城趾のあたり中空で鳶が鳴く、と丁ど今が春の鰯を焼く匂がする。 飯を食べに行っても可、ちょいと珈琲・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵か、蛆が蠢めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」「これはきびしいね」「串戯じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立っ・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行の人通り。見附正面の総湯の門には、浅葱に、紺に、茶の旗が、納手拭のように立って、湯の中は祭礼かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前には、駄菓子店、甘酒の店、飴の湯、水菓子の・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・仲見世の人通りは雨の朧に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。 それきり逢わぬ、とは心の裡に思わないながら、一帆は急に寂しくなった。 妙に心も更まって、しばらく何事も忘れて、御堂の階段を……あの大提灯の下を小さく上って・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸く二升ばかり宛を採り得た。「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」 民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西の方の空は一体に・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 空からはちらほらと、たゆたいながら雪が落ち始める。 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・水ぎわにちらほらと三葉四葉ついた櫨の実生えが、真赤な色に染っている。自分が近づけば、水の面が小砂を投げたように痺れを打つ。「おや、みんな沈みました」と藤さんがいう。自分は、水を隔てて斜に向き合って芝生に踞む。手を延ばすなら、藤さんの膝に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・バスケットも、ちらほら見える。ああ、信玄袋というものもこの世にまだ在った。故郷を追われて来たというのか。 青年たちは、なかなかおしゃれである。そうして例外なく緊張にわくわくしている。可哀想だ。無智だ。親爺と喧嘩して飛び出して来たのだろう・・・ 太宰治 「座興に非ず」
出典:青空文庫