・・・ マリーナは、追想に堪えぬように云った。「私共だって、あんた方のように若い気軽な夫婦だった事もあるのよ、ダーシェンカ。大きな裁板の前でエーゴルが裁つ。私が縫う。これにエーゴルが仕上をして顧客へ届ける。少しずつお金をためる。飾窓へやっ・・・ 宮本百合子 「街」
・・・然し、何か追想とか、思いとか云う、優雅な、同時に或距離を持った言葉では云い表わされない力をもったものである。 丁度、二人がしっくりと抱き合って暮す時の感じを、全体的な、ホールサムな満ち足りた生存だとすると、数千哩互を隔てられた彼女自身の・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
・・・自分が文学者として如何うだと云う批評や野心等は抜きにして、青年のような熾な愛、帰依で先人の文を追想し得た尊い心情の持ち主であると云う感服。 他の一方は。――彼も、ヴィクトリア時代の考証癖を脱し切れず、自分がこれはどう感じ見るかと思うより・・・ 宮本百合子 「無題(四)」
・・・この時代の追想はゴーリキイの作品として最も興味あるものの一つ「幼年時代」にまざまざと芸術化されている。 七歳になったときゴーリキイは祖父に古代スラヴ語を教えられ、八つで小学校に入れられたが、まともなルバーシカ一枚もっていないゴーリキイの・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
・・・此のより深き認識への追従感覚を所有した作品をまた自分は尊敬する。例えば最も平凡な例をもってすれば、ストリンドベルヒの「インフェルノ」「ブリューブック」及び芭蕉の諸作や志賀直哉氏の一二の作に於けるが如く、またニイチェの「ツァラツストラ」に於け・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・ が、こういう経験のおかげで、私は今さらに京都の樹木の美しさを追想するようになった。 大槻正男君の話によると、京都の風土は植物にとって非常に都合のよいものであるという。素人目にもそれはわかる。水の豊富なこと、花崗岩の風化でできた・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・ 予は当時を追想して烈しい羞恥を覚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあっても、とにかく予としては必然の道であった。そうしてこの歯の浮くような偶像破壊が、結局、その誤謬をもって予を導いたのであった。――予は病理的に昂進した欲望をも・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫