・・・ アラムハラドは長い白い着物を着て学者のしるしの垂れ布のついた帽子をかぶり低い椅子に腰掛け右手には長い鞭をもち左手には本を支えながらゆっくりと教えて行くのでした。 そして空気のしめりの丁度いい日またむずかしい諳誦でひどくつかれた次の・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。 愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私たちがわれとわが身をだましてゆくことを、はっきり拒絶したいと思います。愛が聖らかであるなら、それは・・・ 宮本百合子 「愛」
・・・ 宗達は能登の人、こまかい伝記はつまびらかでないが寛永年間に加賀侯に仕え、光琳によって大成された装飾的な画風を創めた画家である。と辞典に短かく書かれてある。 なるほど、小さい絵はがきに見るこの源氏物語図屏風にしろ、魅力をもって先ず私・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・ まぶたは優しい母親の指で静かになで下げられ口は長年仕えた女の手で差えられて居る。多くの女達は冷たい幼児の手を取って自分の頬にすりつけながら声をあげて泣いて居る。啜り泣きの声と吐息の満ちた中に私は只化石した様に立って居る。「何か・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 澄んだ眼と高い額とは神に仕えるにふさわしい崇尊さを顔に浮べて居た。 白い衣の衿は少しも汚れて居なかった。 しずかに落ついて話すべき時にのみ話した。 四十五六で、白衣の衿の黒いのを着て奥歯に金をつめてどら声でよくしゃべる一人・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ 彼等は、日本の婦人が全く奴隷的境遇に甘じ、良人は放蕩をしようが、自分を離婚で脅かそうが、只管犠牲の覚悟で仕えている。そして、自分の良人を呼ぶのにさえその名を云わず“Our master”と呼ぶ、と云ったと仮定します。 これを見た日・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・は、あらゆるところで、女は夫に仕えて云々という表現をしているのだが、福沢諭吉の開化の心は、主従関係、身分の高下をあらわしたそういう表現が夫婦の間にあることに耐え得ない。「我輩の断じて許さざるところなり」「婦人をして柔和忍辱の此頂上にまで至ら・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
・・・余程永年、豊臣家に仕えていたものらしい。ところが、このお菊がどんな生活をしていたかといえば、冬でも僅かに麻衣を重ねていたに過ぎないということが、竹越与三郎氏の日本経済史の中に一つの插話として書かれている。そうして見れば、当時最も華美とされた・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・太郎の子内膳正は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤嘉明に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪籠城のとき、後藤基次の下で働いたことがある。細川家に召し・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・永正十一年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申候。 父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙を失い、母の・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
出典:青空文庫