・・・ この遺書蝋燭の下にて認めおり候ところ、只今燃尽き候。最早新に燭火を点候にも及ばず、窓の雪明りにて、皺腹掻切候ほどの事は出来申すべく候。 万治元戊戌年十二月二日興津弥五右衛門華押 皆々様 この擬書は翁草に拠・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・と、娘は厳重な詞附きで問うた。 ツァウォツキイは左の手でよごれた着物の胸を押さえた。小刀の痕を見附けられたくなかったのである。そしてもうこの娘を見たから、このまま帰ってもよいのだと心の中に思った。しかし問われて見れば返事をしないわけには・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 彼女は緞帳の襞に顔を突き当て、翻るように身を躍らせて、広間の方へ馳け出した。ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮辱を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上ると大理石の鏡面を片影のように辷って行くハプスブルグの娘の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛えていて、ひとり和やかに沈・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その名の如く美しく咲くであろう。その尽きざる快楽の欣求を秘めた肺腑を持って咲くであろう。四騎手は血に濡れた武器を隠して笑うであろう。しかし我々は、彼らの手からその武器を奪う大いなる酒神の姿を何処で見たか。再び、彼らはその平和の殿堂で、その胎・・・ 横光利一 「黙示のページ」
・・・ エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その背後は海である。「行ってしまったのです。移住したのです。行方不明です。」「それはよほど前の事かね。」「さよう。もう三十年程になります。」 エルリングは昂然として戸口を出て行く・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・『いでゆ』が我々の目前の題材を深く突き込んで捕えたことは、確かに喜ぶべきことである。またそれが目前の題材から浪漫的な気分を取り出したことも、直ちに非難すべきではない。『いでゆ』は『いでゆ』として存立の意義があるだろう。しかしこの画によっ・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫