・・・すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。 遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風に追われながら、転げるように外へ逃げ出しました。 三 その夜の十二時に近い時分・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・あの色の白い、細面の、長い髪をまん中から割った三浦は、こう云う月の出を眺めながら、急に長い息を吐くと、さびしい微笑を帯びた声で、『君は昔、神風連が命を賭して争ったのも子供の夢だとけなした事がある。じゃ君の眼から見れば、僕の結婚生活なども――・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・女はすぐさま汽車に乗って、懐しい東京へ着くが早いか、懐しい信行寺の門前へやって来ました。それがまたちょうど十六日の説教日の午前だったのです。「女は早速庫裡へ行って、誰かに子供の消息を尋ねたいと思いました。しかし説教がすまない内は、勿論和・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ そのほかまだ数え立てれば、砲兵工廠の煙突の煙が、風向きに逆って流れたり、撞く人もないニコライの寺の鐘が、真夜中に突然鳴り出したり、同じ番号の電車が二台、前後して日の暮の日本橋を通りすぎたり、人っこ一人いない国技館の中で、毎晩のように大・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 家に着くともう妹のために床がとってありました。妹は寝衣に着かえて臥かしつけられると、まるで夢中になってしまって、熱を出して木の葉のようにふるえ始めました。お婆様は気丈な方で甲斐々々しく世話をすますと、若者に向って心の底からお礼をいわれ・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・東京を発つ時からなんとなくいらいらしていた心の底が、いよいよはっきり焦らつくのを彼は感じた。そして彼はすべてのことを思うままにぶちまけることのできない自分をその時も歯痒ゆく思った。 事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親・・・ 有島武郎 「親子」
・・・思い入って急所を突くつもりらしく質問をしかけている父は、しばしば背負い投げを食わされた形で、それでも念を押すように、「はあそうですか。それではこの件はこれでいいのですな」 と附け足して、あとから訂正なぞはさせないぞという気勢を示した・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「さあ、かーっといってお吐きなさい……それもう一度……どうしようねえ……八っちゃん、吐くんですよう」 婆やは八っちゃんをかっきり膝の上に抱き上げてまた脊中をたたいた。僕はいつ来たとも知らぬ中に婆やの側に来て立ったままで八っちゃんの顔・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・たとえば人の噂などをする場合にも、実際はないことを、自分では全くあるとの確信をもって、見るがごとく精細に話して、時々は驚くような嘘を吐くことが母によくある。もっとも母自身は嘘を吐いているとは思わず、たしかに見たり聞いたりしたと確信しているの・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・「喰付く犬が居るよ。お母あさんも、みんなも、もう庭へ出てはいけません。本当に憎らしい犬だよ」といった。 夜になって犬は人々の寝静まった別荘の側に這い寄って、そうして声を立てずにいつも寝る土の上に寝た。いつもと違って人間の香がする。熱いの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
出典:青空文庫