・・・爺さんは生垣を指ざして、この辺は要塞が近いので石塀や煉瓦塀を築くことはやかましいが、表だけは立派にしたいと思って問い合わせてみたら、低い塀は築いても好いそうだから、その内都合をしてどうかしようと思っていると話した。 表通は中くらいの横町・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もする。そのくせなかなかよい奴であった。女房にはひどく可哀がられていた。女房はもとけちな女中奉公をしていたもので十七になるまでは貧乏な人達を主人にして勤めたのだ。 ある日曜日に暇を貰っ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首を手に取り上げ、「忍藻、和女の物思いも道理じゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻太息吐くようでは、太息のみ吐いておるようでは・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・佐助の眼を突く心理を少しも書かずに、あの作を救おうという大望の前で、作者の顔はこの誤魔化しをどうすれば通り抜けられるかと一身に考えふけっているところが見えてくるのである。 佐藤春夫氏は極力作者に代って弁解されたが、あの氏の弁明は要するに・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。 ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色燦爛たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ひとり出かけて行って秋三の狡さを詰ろうかとも思ったが、それは矢張り自分にとって不得策だと考えつくと、今更安次を連れて来てにじり附けた秋三の抜け目のない遣方に、又腹立たしくなって来た。 安次は食べ終ると暫く缶詰棚を眺めながら、「しびは・・・ 横光利一 「南北」
・・・ そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにさ・・・ 横光利一 「南北」
・・・ そう思うと、彼は今一段自分の狡猾さを増して、自分から明らかに堂々と以後一家で負う可き一切の煩雑さを、秋三に尽く背負わして了ったならば、その鮮かな謀叛の手腕が、いかに辛辣に秋三の胸を突き刺すであろうと思われた。 彼は初めて秋三に復讐し終・・・ 横光利一 「南北」
・・・そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽く胃の腑の中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現・・・ 横光利一 「蠅」
・・・あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫