・・・殊に女は赤子の口へ乏しい乳を注ぐ度に、必ず東京を立ち退いた晩がはっきりと思い出されたそうです。しかし店は忙しい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金が出来た。――と云うような始末でしたから、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・松江の川についてはまた、この稿を次ぐ機会を待って語ろうと思う。 二 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分がこれらのものを愛好するゆえんはけっして単にそれが過去に属するからのみで・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・ 今度は、がばがばと手酌で注ぐ。「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」「ああ、情ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌だと引導を渡す処だ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・お米が烈々と炭を継ぐ。 越の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麦と蕎麦屋までが貼紙を張る。ただし安価くない。何の椀、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・忘れられて取残されたは、主なき水漬屋に、常に変らぬのどかな声を長く引いて時を告ぐるのであった。 三 一時の急を免れた避難は、人も家畜も一夜の宿りがようやくの事であった。自分は知人某氏を両国に訪うて第二の避難を謀っ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊をきるもの菜種に肥を注ぐもの、田園ようやく多事の時である。近き畑の桃の花、垣根の端の梨の花、昨夜の風に散ったものか、苗代の囲りには花びらの小紋が浮いている。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・夏目さんには大勢の門下生もあることだが、しかし皆夏目さんの後を継ぐことはできない傾向の人ばかりのように思う。ただ一人此処に挙ぐれば、現在は中央文壇から遠ざかっているけれども、大谷繞石君がいるだけである。この人は夏目さんの最も好い後継者ではあ・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・ しかし、A病院は、いまも繁栄しているけれど、慈善病院は、B医師の死後、これを継ぐ人がなかったために滅びてしまいました。その建物も、いつしか取り払われて、跡は空き地となってしまったけれど、毎年三月になると、すいせんの根だけは残っていて、・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・立たなくなった、脾骨の見えるような馬を屠殺するために、連れて行くのを往来などで遊んでいて見た時、飼主の無情より捨てられて、宿無しとなった毛の汚れた犬が、犬殺しに捕えられた時、子供等が、これ等の冷血漢に注ぐ憎悪の瞳と、憤激の罵声こそ、人間の閃・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
・・・二匹で五円、闇市場の中では靴みがきに次ぐけちくさい商内だが、しかし、暗がりの中であえかに瞬いている青い光の暈のまわりに、夜のしずけさがしのび寄っているのを見た途端、私はそこだけが闇市場の喧騒からぽつりと離れて、そこだけが薄汚い、ややこしい闇・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫