・・・両足を地面に着けることを忘れてはいないか。 また諸君は、詩を詩として新らしいものにしようということに熱心なるあまり、自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば、諸君のかつて排斥したところの詩人の堕落をふた・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き、年月夜ごとにきっとである。 且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ それでは御免蒙って、私は一膳遣附けるぜ。鍋の底はじりじりいう、昨夜から気を揉んで酒の虫は揉殺したが、矢鱈無性に腹が空いた。」と立ったり、居たり、歩行いたり、果は胡坐かいて能代の膳の低いのを、毛脛へ引挟むがごとくにして、紫蘇の実に糖蝦の・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・渠は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町の交番を発し、一時間交替の巡回の途に就けるなりき。 その歩行や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩からず、早からず、着々歩を進めて路を行くに、身体はきっとして立ちて左右に寸毫も・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・今でこそ写楽々々と猫も杓子も我が物顔に感嘆するが、外国人が折紙を附けるまでは日本人はかなりな浮世絵好きでも写楽の写の字も知らなかったものだ。その通りに椿岳の画も外国人が買出してから俄に市価を生じ、日本人はあたかも魔術者の杖が石を化して金とす・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・第九輯巻四十九以下は全篇の結末を着けるためであるから勢いダレる気味があって往々閑却されるが、例えば信乃が故主成氏の俘われを釈かれて国へ帰るを送っていよいよ明日は別れるという前夕、故主に謁して折からのそぼ降る雨の徒々を慰めつつ改めて宝剣を献じ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・公正にして、純情な子供の心に、階級的な観念を植付けるものは、その親達でありました。中には小さな利己的な潔癖から、自分の家へ友達を呼んで来るのを厭うような母親もあるが、そうしたことが、子供をして将来、個人主義者たらしめたり、会社へ出ても、他と・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・ 差さるる盃を女は黙って受けたが、一口附けると下に置いて、口元を襦袢の袖で拭いながら、「金さん、一つ相談があるが聞いておくれでないか?」「ひどく改まったね。何だい、相談てえのは?」「ほかではないがね、お前さんに一人お上さんを取り・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・日が照付けるぞ。と、眼を開けば、例の山査子に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張彼の男だ…… 現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反ッているのだ。何の恨が有っておれは・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ この上は明日中に何とか処置を着ける積り、一方には手紙で母に今一度十分訴たえてみ、一方には愈々という最後の処置はどうするか妻とも能く相談しようと、進まぬながらも東宮御所の横手まで来て、土手について右に廻り青山の原に出た。原を横ぎる方が近・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫