・・・しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかった。僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に転がったまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。この・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・何か心に思ってる事がなくて、そんなによそよそしくせんでもよい人に、つとめてよそよそしくするのはおかしいにきまっている。稲を刈って助けるのは、心あっての事ともそうでないとも見られるが、そのそぶりはなんでもないもののする事とは見られない。 ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・私はきゅうに自分の着ている布団の穢さが気になって、努めて起きでた。 私もそこにしてあるとおり、自分の布団と木枕とを上り口の横に積重ねて、それから顔でも洗おうと思って、手拭を持って階子の口へ行くと、階下から暖いうまそうな味噌汁の匂がプンと・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 学術的、社会・経済的ないし職業専門的の書物にあっても、つとめて勤勉して読むことは、非常に必要である。現実の心得としては、おそらくさきに述べたような私の高等的忠言よりも、「読むべし、読むべし」と鞭撻すべきかもしれない。読みすぎることをお・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・いまとなっては、私は、おのが苦悩の歴史を、つとめて厳粛に物語るよりほかはなかろう。てれないように。てれないように。私も亦、地平線のかなた、久遠の女性を見つめている。きょうの日まで、私は、その女性について、ほんの断片的にしか語らず私ひとりの胸・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・おおらかな、強い意志と、努めて明るい高い希望を持ち続ける為にも、諸君は今こそシルレルを思い出し、これを愛読するがよい。シルレルの詩に、「地球の分配」という面白い一篇がありますが、その大意は、凡そ次のようなものであります。「受取れよ、この・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・ 私は、つとめて大袈裟に噴きだして見せた。馬場はいつになくはればれと微笑み、私の肩をぽんと叩いて、「日本で一番よいまちだ。みんな胸を張って生きているよ。恥じていない。おどろいたなあ。一日一日をいっぱいに生きている」 それ以後、私・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・(吾妻鏡 おたずねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。 というのが開巻第一頁だ。どうも、自分の文章を自分で引用するというのは、グロテスクなも・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・会いたくないと思ってつとめて避けている人に偶然出くわすような気がしばしばした。ある日思い切って左の頬をうんと切り落としてから後はこの不思議な幽霊に脅かされる事は二度となくなった。 いつまでやってもついにできあがる見込みはなさそうに思われ・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・特に深く交際のない人には、一層発作が出易く危険なので、自然こちらから交際を避け、つとめて会わないようにして来たのである。 僕の天性の我がまま気儘も、これに輪をかけて自分を洞窟の仙人にした。人と人との交際ということは、所詮相互の自己抑制と・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫