・・・ 調子にのって弁じていた了哲と云う坊主が、ふと気がついて見ると、宗俊は、いつの間にか彼の煙管入れをひきよせて、その中から煙草をつめては、悠然と煙を輪にふいている。「おい、おい、それは貴公の煙草入れじゃないぜ。」「いいって事よ。」・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・ただ行長は桂月香のこの宝鈴も鳴らないように、いつのまにか鈴の穴へ綿をつめたのを知らなかったのである。 桂月香と彼女の兄とはもう一度そこへ帰って来た。彼女は今夜は繍のある裳に竈の灰を包んでいた。彼女の兄も、――いや彼女の兄ではない。王命を・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・みずから得たとして他を笑った喜劇も、己れの非を見いでて人の危きに泣く悲劇も、思えば世のあらゆる顕われは、人がこの一事を考えつめた結果にすぎまい。三 松葉つなぎの松葉は、一つなぎずつに大きなものになっていく。最初の分岐点から最・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故、野の仕事も今日一渡り極りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることに・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・母は手の物を置いて、眼鏡越しに省作の顔を視つめながら、「そらまあ……」 驚いた母はすぐにあとのことばが出ぬらしい。省作はかえって、母に逢ったら元気づいた。これで見ると、省作も出てくるまでには、いくばくの煩悶をしたらしい。「おッ母・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・毎日、毎日、白ばらの花からとった香水をびんにつめています。そして、夜、おそく家に帰ります。今夜も働いて、ひとりぶらぶら月がいいので歩いてきますと、石につまずいて、指をこんなにきずつけてしまいました。私は、いたくて、いたくてがまんができないの・・・ 小川未明 「月夜とめがね」
・・・と、あくる朝、お母さんが、つめを切ろうとして、はさみが見つからないので、こうおっしゃいました。「きのうまで、箱の中にはいっていたんですよ。また、太郎さんが使って、どこかへ置き忘れたのでしょう。」 姉さんは、方々おさがしになりました。・・・ 小川未明 「古いはさみ」
・・・ 鼻血が出たので、私は鼻の穴に紙片をつめたまま点呼を受けた。査閲の時点呼執行官は私の顔をジロリと見ただけで通り過ぎたが、随行員の中のどうやら中尉らしい副官は私の鼻を問題にした。 傍にいた分会長はこ奴は遅刻したので撲ってやりましたと言・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ と、笑っていると、お前は暫らくおれの顔を見つめていたが、何思ったか、いきなり、「――冗談言うと、撲りますぞ」 と、言って出て行き、それきりおれのところへ顔出しもしなかったが、それから大分経って、損害賠償だといって、五十円請求し・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・そしてどこの門の中も、人気が無いかのようにひっそり閑としていて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカ/\光っていた。で「斯んな広いお邸宅の静かな室で、午睡でもしていたいものだ」と彼はだら/\流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思いながら、息・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫