・・・ 兄は、けれども少しも笑わずに顔をそむけ、立ち上ってドテラを脱ぎ、ひとりで外出の仕度をはじめた。「街へ出て見よう。」「はあ。」ずるい弟は、しんから嬉しかった。 街は、暮れかけていた。兄は、自動車の窓から、街の奉祝の有様を、む・・・ 太宰治 「一燈」
・・・こんな暑い日にはいっそドテラでも着てみたら、どうかしら。かえって涼しいかも知れない。なにしろ暑い。――「芸術新聞」昭和十七年八月―― 太宰治 「炎天汗談」
・・・ 私はこのごろ、破れたドテラなんか着ていない。朝起きた時から、よごれの無い、縞目のあざやかな着物を着て、きっちり角帯をしめている。ちょっと近所の友人の家を訪れる時にも、かならず第一の正装をするのだ。ふところには、洗ったばかりのハンケチが・・・ 太宰治 「新郎」
・・・おじさんの様に、いつもドテラ着て家に居る人間には、どうしても運動の明るさと、元気を必要としますから。きょうも、またおじさんを、うんと笑わせてあげます。これから書くことは、もっとおしまいに書くつもりでしたけれど、早くお知らせしたく我慢できなく・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・小説に依ると戸田さんは、着る着物さえ無くて綿のはみ出たドテラ一枚きりなのです。そうして家の畳は破れて、新聞紙を部屋一ぱいに敷き詰めてその上に坐って居られるのです。そんなにお困りの家へ、私がこないだ新調したピンクのドレスなど着て行ったら、いた・・・ 太宰治 「恥」
・・・の玄関に立ち、落ちついて彼の会社の名を告げ、スズメに用事がある、と少し顔を赤くして言い、女中にも誰にもあやしまれず、奥の二階の部屋に通され、早速ドテラに着かえながら、お風呂は? とたずね、どうぞ、と案内せられ、その時、「ひとりものは、つ・・・ 太宰治 「犯人」
・・・その日は日曜であったのだろう、彼は、ドテラ姿で家にいた。「晩餐会は中止にして下さい。どうも、考えてみると、この物資不足の時に、僕なんかにごちそうするなんて、むだですよ。つまらないじゃありませんか。」「残念です。あいにく只今、細君も外・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
一 涼しさと暑さ この夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮える・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・赤茶色の箪笥、長火鉢、蠅入らず、部屋のあらいざらいの道具が、皆、テラテラ妙に光って、ぼろになった畳と畳との合わせ目から夜気がつめたくすべり込んで来る様だった。 火の気のない、静かな、広い畑の中にポッツリたった一軒家には、夜のあらゆる不思・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・櫛比した宿屋と宿屋との軒のあわいを、乗合自動車がすれすれに通るのであるから、太い木綿縞のドテラの上に小さい丸髷の後姿で、横から見ると、ドテラになってもなおその襟に大輪の黄菊をつけている一群は、あわてて一列縦隊をつくり、宿屋の店先へすりついて・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
出典:青空文庫