・・・ 家の南側に、釣瓶を伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよければ、細君はそこに盥を持ち出して、しきりに洗濯をやる。着物を洗う水の音がざぶざぶとのどかに聞こえて、隣の白蓮の美しく春の日に光るのが、なんとも言えぬ平和な趣をあたりに・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・昭和九年九月二十九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行って汽車を待っていると、湿っぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣われたが、塩尻まで来るととうとう小雨になった。松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりし・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・あの時にあの罪のない俚謡から流れ出た自由な明るい心持ちは三十年後の今日まで消えずに残っていて、行きづまりがちな私の心に有益な転機を与え、しゃちこ張りたがる気分にゆとりを与える。これはおそらく私の長い学校生活の間に受けた最もありがたい教えの中・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・画家の絵の転機はやはり永い間に自然に起って来るものがほんとうにその人に取って純真なものではないだろうか。毎年の展覧会に必ず変化を見せる必要はないかと思う。 ブラマンク張りの絵が沢山出ている。私は二科会で何故こういう明白な模造を陳列さ・・・ 寺田寅彦 「二科会その他」
・・・そういうわずかな事によって人々の仕事の能率が現在よりもいくらかでも高められ、そうして人々の心持ちの平安はいくらかでも増し、行き詰まった心持ちと知恵とはなんらかの新しい転機を見いだしはしないだろうか。 小説や風聞録のようないわゆる閑文・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・卒業はともかくも亮にとっても一つの一大転機であった。 この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認めていたらしい。それで・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・もっともこのようなことは何も連句に限らず他の百般の事がらに通有ないわゆる「転機」の妙用に過ぎないので、われわれ人間の生涯の行路についても似よったことが言われるであろうが、そういう範疇の適切なる一例として見らるるという点に興味があるであろう。・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・ もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく桶をかついで、いつものように屋敷の多い住宅地を売ってあるいていたが、あるお邸で、たいへんなしくじりをやってしまった。 そのお邸は石垣のうえにある高台の家で、十ばかり・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・あれは遠い丸の内、それでも天気のいい時には吃驚りするほど座敷の障子を揺る事さえある、されば、すぐ崖下に狐を打殺す銃声は、如何に強く耳を貫くであろう。家中の女共も同じ事、誰れか狐に喰いつかれはしまいか。お狐様は家の中まで荒れ込んで来はしまいか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かったようなものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫