・・・といったが、これは顛倒されねばならぬ。「汝は能う、故になさねばならぬ」である。彼の義務は過剰であるというイデー、カントの命題の顛倒の思想はニイチェに影響した。ツァラツストラは知恵と力にふくれて山から下り、自己を与えんために民衆への没落を義務・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・彼は世界の災厄の原因と、国家の混乱と顛倒とをただすべき依拠となる真理を強く要請した。「日本第一の知者となし給へ」という彼の祈願は名利や、衒学のためではなくして、全く自ら正しくし、世を正しくするための必要から発したものであった。 善と・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・今、店頭で売っているものとは木質からして異う。 しかし、重いだけ幼い藤二には廻し難かった。彼は、小半日も上り框の板の上でひねっていたが、どうもうまく行かない。「お母あ、独楽の緒を買うて。」藤二は母にせびった。「お父うにきいてみイ・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
・・・と質すと、源三は術無そうに、かつは憐愍と宥恕とを乞うような面をして微に点頭た。源三の腹の中は秘しきれなくなって、ここに至ってその継子根性の本相を現してしまった。しかし腹の底にはこういう僻みを持っていても、人の好意に負くことは甚く心苦しく・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・人をしてなるほどと首肯点頭せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、またそれは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色の慾が足り、少しの閑暇があり、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしてもそれ・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・神田本同書には、「此志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人奇特の思をなし、帰依浅からざる上、畠山入道諸事深く信仰頼入りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、だぎにてんに足利義詮を祈殺そう・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・なお黙ってはいたが、コックリと点頭して是認した彼の眼の中には露が潤んで、折から真赤に夕焼けした空の光りが華はなばなしく明るく落ちて、その薄汚い頬被りの手拭、その下から少し洩れている額のぼうぼう生えの髪さき、垢じみた赭い顔、それらのすべてを無・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・高瀬の住む町からもさ程離れていないところで、細い坂道を一つ上れば体操教師の家の鍛冶屋の店頭へ出られる。高い白壁の蔵が並んだ石垣の下に接して、竹薮や水の流に取囲かれた位置にある。田圃に近いだけに、湿気深い。「お早う」 と高瀬は声を掛け・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ふと、ある店頭のところで、買物している丸髷姿の婦人を見掛けた。 大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三年ほど前に別れた彼の妻だ。 避ける間隙も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見た・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・い日は無かった―― 三年振で別れた妻に逢って見た大塚さんは、この平素信じていたことを――そうだ、よく彼女に向って、誰某は女でもなかなかのシッカリものだなどと言って褒めて聞かせたことを、根から底から転倒されたような心地に成った。「シッカリ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
出典:青空文庫