・・・浅井忠の板下を描いた当世風俗五十番歌合というものに、「風ひきめまいの大奇薬、オッチニイ」とその売声が註にしてある。此書は明治四十年の出版であるが、鍋焼温飩の図を出して、支那蕎麦屋を描いていない。之に由って観れば、支那そばやが唐人笛を吹いて歩・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・ 今銀座のカッフェーに憩い、仔細に給仕女の服装化粧を看るに、其の趣味の徹頭徹尾現代的なることは、恰当世流行の婦人雑誌の表紙を見る時の心持と変りはない。一代の趣味も渾然として此処まで堕落してしまって、又如何ともすることの出来ぬものに成り了・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・正式にいうと、あらかじめ重吉に通知をしたうえ、なおH着の時間を電報で言ってやるべきであるが、なるべくお互いの面倒を省いて簡略に事を済ますのが当世だと思って、わざと前触れなしに重吉を襲ったのであるが、いよいよ来てみると、自分のやり口はただの不・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ 本田家の当主は、家族の者と主治医とに守られて、陶製のもののように、何も考えることも感じることも出来なくなった頭を、氷枕と氷嚢との間に挟んでいた。 家族の人たち、当主の妻と、その子供である、二人の息子と三人の娘とは、何かを待つような・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 前章にいえる如く、当世の学者は一心一向にその思想を政府の政に凝らし、すでに過剰にして持てあましたる官員の中に割込み、なおも奇計妙策を政の実地に施さんとする者は、その数ほとんどはかるべからず。ただに今日、熱中奔走する者のみならず、内外に・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 父兄はもちろん、取引先きも得意先きも、十露盤ばかりのその相手に向い、君は旧弊の十露盤、僕は当世の筆算などと、石筆をもって横文字を記すとも、旧弊の連中、なかなかもって降参の色なくして、筆算はかえって無算視せらるるの勢なり。いわんや、その・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・何せそう云ういい天気で、帆布が半透明に光っているのですから、実にその調和のいいこと、もうこここそやがて完成さるべき、世界ビジテリアン大会堂の、陶製の大天井かと思われたのであります。向うには勿論花で飾られた高い祭壇が設けられていました。そのと・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・徳川幕府のアカデミアであった林氏の儒学とそのアカデミズムとは、全く幕府の権力に従属した一つの思想統制のシステムであった。幕末の、進歩的な藩に置かれた藩学校は、当時表面上は幕府法律で禁じられていた英、蘭学の学習を秘密に行ったり、「万国」の事情・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・なにしろあの当時、言論報道は全く統制されて嘘の大本営発表しか知らされなかったのだから、読者はこんにちあらわれる「秘史」にエログロと違うスリルを感じて、夏枯れしのぎに、いい思いつきのように流行しています。 これらの「秘史」「ルポルタージュ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・情報局の陸海軍人が出版物統制にあたって、自分たちの書いたものを出版させて印税をむさぼりながらすべての平和、自由を窒息させた。文学報国会が大会を陸海軍軍人の演説によって開会し、出席する婦人作家はもんぺい姿を求められたというようなことは日本の文・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
出典:青空文庫