・・・「なんぼ広い東京じゃとて問うて行きゃ、どこいじゃって行けんことはないわいや。」 そして、ある朝早く、両人は出かけた。「お前等両人でどこへ行けるもんか。」出かけしなに清三は不安らしく止めた。「いゝや、大事ない、うら等二人で行く・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・夕方まで骨を折って、足の裏が痛くなるほど川ん中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたけれども、とうとう一尾も釣れずに家へ帰ると、サア怒られた怒られた、こん畜生こん畜生と百ばかりも怒鳴られて、香魚や山やまめは釣れないにしても雑魚位釣れない奴が・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ン、これが別れ別れて両方後家になっていたのだナ、しめた、これを買って、深草のを買って、両方合わせれば三十両、と早くも腹の中で笑を含んで、価を問うと片方の割合には高いことをいって、これほどの物は片方にせよ稀有のものだからと、なかなか廉くない。・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 十一日午前七時青森に着き、田中某を訪う。この行風雅のためにもあらざれば吟哦に首をひねる事もなく、追手を避けて逃ぐるにもあらざれば駛急と足をひきずるのくるしみもなし。さればまことに弥次郎兵衛の一本立の旅行にて、二本の足をうごかし、三本た・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・三先輩は打揃って茅屋を訪うてくれた。いずれも自分の親としてよい年輩の人々で、その中の一人は手製の東坡巾といったようなものを冠って、鼠紬の道行振を被ているという打扮だから、誰が見ても漢詩の一つも作る人である。他の二人も老人らしく似つこらしい打・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・しかし長頭丸が植通公を訪うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落の安芸の毛利殿の亭にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花神代もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬと・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・「キョウサントウだかって……」「何にキョ……キョ何んだって?」「キョウサントウ」「キョ……サン……トウ?」 然し母親は直ぐその名を忘れてしまった。そしてトウトウ覚えられなかった。―― 小さい時から仲のよかったお安は、・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・中山さんはとう/\今度市ヶ谷に廻ってしまったんです。」 といって、紹介した。 中山のお母さんは少しモジ/\していた。 私は自分の娘が監獄にはいったからといって、救援会にノコ/\やってくるのが何だかずるいような気がしてならない・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・とが無いからである。戸が開くと、一番先きに顔を出したスパイが、妹の名を云って、いるかときいた。そのスパイは前から顔なじみだった。母は「いるよ。」と、当り前で云ってから、「あれがどうしたのかね?」と問うた。スパイはそれには何も云わずに、「いる・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・「お母さん、そんなにぶらぶらしていらっしゃらないで、ほんとうにお医者さまに診て貰ったらどうです」と別れ際に慰めてくれたのもあの娵だった。どうも自分の身体の具合が好くないと思い思いして、幾度となく温泉地行なぞを思い立ったのも、もうあの頃か・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫