・・・日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火も点けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚りかかりながら、茫然外面をながめている。『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』と去ってしまった、それから五分・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・『一村離れて林や畑の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放っている。二人は気が・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・むし熱い撮影室から転げるようにして出て、ほっと長大息した。とっぷり日が暮れて、星が鈍く光っている。「新やん。」うしろから、低くそう呼ばれて、ふりむくと、いままで髭の男のお給仕をしていて二十回以上も、まあ、とあきれていたあの小柄な令嬢の笑・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 見ると東のとっぷりとした青い山脈の上に、大きなやさしい桃いろの月がのぼったのでした。お月さまのちかくはうすい緑いろになって、柏の若い木はみな、まるで飛びあがるように両手をそっちへ出して叫びました。「おつきさん、おつきさん、おっつき・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・ そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのように青くひかるきり、そこらの草も青黝くかわっていました。「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。 なるほど向うの黒い草むらの・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ もう日暮で――冬は午後四時にとっぷり暗くなる――折から一台の空橇が雪道を村へ向ってやって来た。 森の中から子供の泣き声がする。百姓は恐怖した。チミの仕業だと思ったのだ。彼は手綱をとって馬の腹をうった。森の中から児供の泣き声は次第に・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
出典:青空文庫