・・・及び鴉等は鳴き叫び風を切りて町へ飛び行くまもなく雪も降り来らむ――今尚、家郷あるものは幸福なるかな。 の初聯で始まる「寂寥」の如き詩は、その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ独特の名・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻くように云った。「ピー、カンカンか」 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 一本腕は無意識に手をさし伸べて、爺いさんの左の手に飛び附こうとした。「手を引っ込めろ。」爺いさんはこう云って、一歩退いた。そして左の手を背後へ引いて、右の手を隠しから出した。きらきらと光る小刀を持っていたのである。裸刃で。「手を引・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・波の上に飛びかう鶺鴒は忽ち来り忽ち去る。秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあがりつ胡蝶のひらひらと舞い出でたる箱根のいただきとも知らずてやいと心づよし。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然として現われ出でたる富士ここからもなお三千仞はあ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・けれども飛びあがるところはつい見なかった。ひばりは降りるときはわざと巣からはなれて降りるから飛びあがるとこを見なければ巣のありかはわからない。一千九百二十五年五月六日今日学校で武田先生から三年生の修学旅行のはなしがあ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・村の往道に一本、誰のものとも判らない樫の木が飛び生えていた。その樫の木はいつ其那ところへ芽を出したのだろうとは誰も考えもせず、永年荷馬車を一寸つないだり、子供が攀じ登りの稽古台にしたり、共同に役立てて暮して来た。沢や婆さんの存在もその通りで・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後から目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかり攫んだ。「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。 無言の二人は釘抜で釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍の立木の蔭・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・生きた兎が飛び出せば伏勢でもあるかと刀に手が掛かり、死んだ兎が途にあれば敵の謀計でもあるかと腕がとりしばられる。そのころはまだ純粋の武蔵野で、奥州街道はわずかに隅田川の辺を沿うてあッたので、なかなか通常の者でただいまの九段あたりの内地へ足を・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・勘次は飛び起きた。そして、裏庭を突き切って墓場の方へ馳け出すと、秋三は胸を拡げてその後から追っ馳けた。二 本堂の若者達は二人の姿が見えなくなると、彼らの争いの原因について語合いながらまた乱れた配膳を整えて飲み始めた。併し、彼・・・ 横光利一 「南北」
・・・おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫