・・・しかも海路を立ち退くとあれば、行く方をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗をかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛、加納求馬が兄分・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かして見た。それは彼の家の煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤に蔽われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・国家の権威も学問の威光もこれを遮り停めることはできないだろう。在来の生活様式がこの事実によってどれほどの混乱に陥ろうとも、それだといって、当然現わるべくして現われ出たこの事実をもみ消すことはもうできないだろう。 かつて河上肇氏とはじめて・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・ と女房は呼止める。 奴は遁げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附で、「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待ッてばねえ。」 衝と身を起こして追おうとすると、奴は駈出した五足ばかり・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ ○日月星昼夜織分――ごろからの夫婦喧嘩に、なぜ、かかさんをぶたしゃんす、もうかんにんと、ごよごよごよ、と雷の児が泣いて留める、件の浄瑠璃だけは、一生の断ちものだ、と眉にも頬にも皺を寄せたが、のぞめば段もの端唄といわず、前垂掛けで、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・十五六になれば児供ではないと云っても、それは理窟の上のことで、心持ではまだまだ二人をまるで児供の様に思っているから、その後民子が僕の室へきて本を見たり話をしたりしているのを、直ぐ前を通りながら一向気に留める様子もない。この間の小言も実は嫂が・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・僅かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・が、どうしてもそれまで起きていられないので燈火の消える時刻を突留める事が出来なかった。或る晩、深夜に偶と眼が覚めて寝つかれないので、何心なく窓をあけて見ると、鴎外の書斎の裏窓はまだポッカリと明るかった。「先生マダ起きているな、」と眺めている・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・すべき無し 法場若し諸人の救ひを欠かば 争でか威名八州を振ふを得ん 沼藺残燈影裡刀光閃めく 修羅闘一場を現出す 死後の座は金きんかんたんを分ち 生前の手は紫鴛鴦を繍ふ月げつちん秋水珠を留める涙 花は落ちて春山土亦香ばし 非命・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ところが、私が大阪から歩いてわざわざ会いに来た話をすると、文子はきゅうに私が気味わるくなったらしく、その晩泊めることすら迷惑な風でした。私はそんな女心に愛想がつきてしまう前に、自分に愛想をつかしました。思えばばかな男だった。ところが、ますま・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫