・・・そこで佐野さんは、内情を知らない親達が、住職の難癖を附けずに出家を止めるのを聞いて、げにもと思うらしいのに勢を得て、お蝶より先きに東京に出て、或る私立学校に這入った。お蝶が東京に出たのは、佐野さんの跡を慕って来たのであった。 佐野さんは・・・ 森鴎外 「心中」
・・・農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛を吊り上げた。「出るかの。直ぐ出るかの。悴が死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」「桂馬と来たな。」「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれる・・・ 横光利一 「蠅」
・・・それどころか、応永、永享というごとき年号を、記憶に留めるほどの刺激を受けたこともなかった。連歌の名匠心敬に右のごとき言葉があることを知ったのも、老年になってからである。しかし心敬のあげた証拠だけを見ても、この時代が延喜時代に劣るとは考えられ・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫