・・・窓から外を見ると運動場は、処々に水のひいた跡の、じくじくした赤土を残して、まだ、壁土を溶かしたような色をした水が、八月の青空を映しながら、とろりと動かずにたたえている。その水の中を、やせた毛の長い黒犬が、鼻を鳴らしながら、ぐしょぬれになって・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・と、とろりとして星を仰ぐ。「大木戸から向って左側でございます、へい。」「さては電車路を突切ったな。そのまま引返せば可いものを、何の気で渡った知らん。」 と真になって打傾く。「車夫、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれに・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・「うんや、鳥は悧巧だで。」「悧巧な鳥でも、殺生石には斃るじゃないか。」「うんや、大丈夫でがすべよ。」「が、見る見るあの白い咽喉の赤くなったのが可恐いよ。」「とろりと旨いと酔うがなす。」 にたにたと笑いながら、「麦・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射もそこばかりはものの朦朧として淀むあたりに、――微との風もない折から、根なしに浮いた板な・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と笑った主人は、真にはや大分とろりとしていた。が、酒呑根性で、今一盃と云わぬばかりに、猪口の底に少しばかり残っていた酒を一息に吸い乾してすぐとその猪口を細君の前に突き出した。その手はなんとなく危げであった。 細君が静かに酌をしようと・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・「からすかんざえもんは くろいあたまをくうらりくらり、 とんびとうざえもんは あぶら一升でとうろりとろり、 そのくらやみはふくろうの いさみにいさむもののふが みみずをつかむときなるぞ ねとりを襲うときなるぞ・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・のじゃ、又ちちと鳴いて飛び立つじゃ、空の青板をめざすのじゃ、又小流れに参るのじゃ、心の合うた友だちと、ただ暫らくも離れずに、歌って歌って参るのじゃ、さてお天道さまが、おかくれなされる、からだはつかれてとろりとなる、油のごとく、溶けるごとくじ・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・僅かとろりとした時、隣りの婆さんが、後の男に呼びかけた。「あのう――白岡はまだよっぽど先でござんしょうか」「まだ四ツ五ツ先ですよ」「大宮からよっぽど先でござんしょうか」「大宮から蓮田、白岡です」「そうでございますか」・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・ ああ、あの高貴そうな金唐草の頸長瓶に湛えられている、とろりとした金色の液を見よ。揺れると音が立ち、日が直射すると虹さえ浮き立ちそうな色だ。 彼方の清らかな棚におさまっている瀟洒な平瓶。薄みどりの優雅な花汁。 東洋趣味と鋭い西洋・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・つい目の先に桜島を泛べ、もうっと暑気で立ちこめた薄靄の下に漣一つ立てずとろりと輝いていた湾江、広々と真直であった城下の街路。人間もからりと心地よく、深い好意を感じたが、思い出すと、微に喉の渇いたような、熔りつけられた感覚が附随して甦って来る・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫