・・・ 十四 強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……動悸に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍の馬の、片鐙をはずして倒に落ちそうにさえ思われた。 いや、どうもちっと大袈裟だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんな・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ずっと寄れ、さあこの身体につかまってその動悸を鎮めるが可い。放すな。」と爽かにいった言につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。「婆さん、明を。」 飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯の影に、と見れば、予・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・たださえ破れようとする心臓に、動悸は、破障子の煽るようで、震える手に飲む水の、水より前に無数の蚊が、目、口、鼻へ飛込んだのであります。 その時の苦しさ。――今も。 三 白い梢の青い火は、また中空の渦を映し出す・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・また動悸を高くします。」「ほんとに串戯は止して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」「そんなら・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・自分は胸に動悸するまで、この光景に深く感を引いた。 この日は自分は一日家におった。三児は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。 三人が菓子をもらいに来る、お児がいちばん無遠慮にやってくる。「おんちゃん、おんちゃん、かちあ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 何と言っても幼い両人は、今罪の神に翻弄せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞についで、その野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動悸を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・おとよはわが胸の動悸をまで聞きとめた。九十九里の波の遠音は、こういう静かな夜にも、どうーどうーどうーどうーと多くの人の睡りをゆすりつつ鳴るのである。さすがにおとよは落ちつきかね、われ知らず溜息をつく。「おとよさん」 一こえきわめて幽・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 僕も、これが動機となって、いくらかきまりが悪くなったのに加えて、自分の愛する者が年の若い娘にいじめられるところなどへ行きたくなくなった。また、お貞が、僕の顔さえ見れば、吉弥の悪口をつくのは、あんな下司な女を僕があげこそすれ、まさか、関・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・十一 画人椿岳椿岳の画才及び習画の動機 椿岳の実家たる川越の内田家には芸術の血が流れていたと見えて、椿岳の生家にもその本家にも画人があったそうだ。椿岳も児供の時から画才があって、十二、三歳の頃に描いた襖画が今でも川越の家・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫