・・・「ハイ唯今出た所で、まア御上りなさいまし。」「イヤ今日は急いでいるから上りません。」「あなたもうそんなにお宜しいので御座いますか。この前お目にかかった時と御形容なんどがたいした違いで御座います。」「病気ですか、病気なんかもう厭き厭きしました・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・「はやくおさがしなさいよ。どのえだにおいたの。」「わすれてしまったわ。」「こまったわね。これからひじょうに寒いんでしょう。どうしても見つけないといけなくってよ。」「そら、ね。いいぱんだろう。ほしぶどうがちょっと顔をだしてるだ・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・さすがに今度は、「およしなさい」 ふき子にきつく窘められた。不幸な嫁入り先から戻って来てそのような暮しをしている岡本から見ればふき子も陽子も仕合わせすぎて腹立たしい事もあろう。陽子は、世界が違う気楽な若者と暗闘する岡本の気持がわかる・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・暮六つが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝お出なさい」と云った。 次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉が沙に額を埋めて拝みながら待っている・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・さっさとお帰りなさい。」こう云って娘は戸を締めようとして、戸の握りを握った。娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。 この時ツァウォツキイが昔持っていて、浄火の中に十六年いたうちに、ほとんど消滅した、あらゆる悪い性質が忽然今一度・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「お這入りなさいな。」と、婦人はいった。 灸は部屋の中へ這入ると暫く明けた障子に手をかけて立っていた。女の子は彼の傍へ寄って来て、「アッ、アッ。」といいながら座蒲団を灸の胸へ押しつけた。 灸は座蒲団を受けとると女の子のしてい・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・「御免なさい。丁度夜なかです。わたしはこれから海水浴を遣るのです。」 己は主人と一しょに立ち上がった。そして出口の方へ行こうとして、ふと壁を見ると、今まで気が附かなかったが、あっさりした額縁に嵌めたものが今一つ懸けてあった。それに荊の輪・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・それならあなた、弟さんを直ぐに連れてお帰りなさいましよ。御容体が悪くたって、その方が好うございますわ。あちらは春の初には、なんでも物悲しゅうございますの。人間の生も死も。」声は闇の中から聞えるのである。フィンクは聞きながら、少し体を動かした・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・木曜会で集まっている席へ、パジャマに着かえた愛らしい姿で、お休みなさいを言いに来たこともある。私は直接なじみになっていたわけではなく、漱石の没後にも、一時家を出ていたころに、九日会の日に玄関先で見かけたぐらいのものであった。だからベルリンの・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫