・・・ 不思議なもので一度、良心の力を失なうと今度は反対に積極的に、不正なこと、思いがけぬ大罪を成るべく為し遂んと務めるものらしい。 自分はそっとこの革包を私宅の横に積である材木の間に、しかも巧に隠匿して、紙幣の一束を懐中して素知らぬ顔を・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・という法則でなく、「と成る」という法則にしたがうものであり、その結果として両者融合せる新しき「いのち」が生誕するのだ。 子どもの生まれることを恐れる性関係は恋愛ではない。「汝は彼女と彼女の子とを養わざるべからず」 学生時代私はノ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・サーベルの鞘が鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。「分るか。」「いや、サモールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」 コーリヤが扉のかげから現れて来た。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・それが果して成るか成らぬか。そこに脊骨が絞られるような悩みが……」「ト云うと天覧を仰ぐということが無理なことになるが、今更野暮を云っても何の役にも立たぬ。悩むがよいサ。苦むがよいサ。」と断崖から取って投げたように言って、中村は豪然と・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄んだ声で、断えず鳴る笛吹川の川瀬の音をもしばしは人の耳から逐い払ってしまったほどであった。 これを聞くとかの急ぎ歩で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 成る程、俺は独房にいる。然し、決して「独り」ではないんだ。 せき、くさめ、屁 屁の音で隣りの独房にいる同志の健在なことを知る――三・一五の同志の歌で、シャバにいたとき、俺は何かの雑誌でそれを読んだことがあった。・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・の戸開けて今鳴るは一時かと仰ぎ視ればお月さまいつでも空とぼけてまんまるなり 脆いと申せば女ほど脆いはござらぬ女を説くは知力金力権力腕力この四つを除けて他に求むべき道はござらねど権力腕力は拙い極度、成るが早いは金力と申す条まず積ってもごろ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・もじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ頬張ったるが関の山、梯子段を登り来る足音の早いに驚いてあわてて嚥み下し物平を得ざれば胃の腑の必ず鳴るをこらえるもおかしく同伴の男ははや十・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「どれ、そう温順しくしておばあさんの側に遊んでいてくれると、御褒美を一つ出さずば成るまいテ」 と言いながらおげんは菓子を取出して来て、それを三吉に分け、そこへ顔を見せたお新の前へも持って行った。「へえ、姉さんにも御褒美」 こ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・北風が来れば、槲の葉が直ぐ鳴るような調子で、「畜生ッ。打つぞ」 髪を振って、娘は遊び友達の方へ走って行った。 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫