・・・過去の世界で育ち過去の思想で固まった年寄りの自分らが、新しい世界を歩き、新しい思想に慣れるまでの難儀さ迷惑さはどのくらい大きいものか、若い人には想像するさえむつかしいであろうと思われる。 二 草市 七月十三日の夕方哲・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・そういう美しさも慣れると美しさを感じなくなるだろうという人もあるが、そうとは限らない。自然の美の奥行きはそう見すかされやすいものではない。長く見ていればいるほどいくらでも新しい美しさを発見する事ができるはずのものである。できなければそれは目・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・おそらくまだ自覚しない将来の使命に慣れるための練習を無意識にしているのかもしれない。 里帰りの二日間に回復したからだはいつのまにかまたやせこけて肩の骨が高くなり、横顔がとがって目玉が大きくなって来た。あまりかわいそうだから、もう一匹別の・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・朝めし前からかかって、日に四十本をつくるのだが、このはずかしさは、馴れることができない。印刷工場で、団体見学の女学生などにみられるときもはずかしかったが、竹細工はもっとはずかしかった。何せみられる方が一人ぽっちであった。いい若いもんが手内職・・・ 徳永直 「白い道」
・・・三重吉は今に馴れると千代と鳴きますよ、きっと鳴きますよ、と受合って帰って行った。 自分はまた籠の傍へしゃがんだ。文鳥は膨らんだ首を二三度竪横に向け直した。やがて一団の白い体がぽいと留り木の上を抜け出した。と思うと奇麗な足の爪が半分ほど餌・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・人間が境遇に馴れる力。シュニツレル、ゲーテ、イディオットのこと。子供のこと。年をとった女に歌心、絵心、それでなければ信心がある方がいいこと等。 これあるかな松茸飯に豆腐汁。昼はこれ。 M氏来。もう御昼はすみました。でもまあ一膳召しあ・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・ グースベリーの熟れる頃に―― 仙二の心はこの一言を思う毎に重く苦しく、そうして微笑えまれるのだった。 グースベリーの熟れる頃に―― 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・配給し合って互に暮すという方法に馴れることは私たちの一つの力ともなるであろう。けれども、配給とりも直さず万事あてがい扶持で、唯々諾々と生きる無気力の習性となるなら、それは堕落と云われなければならない。私たちは自分たちの世代において文化を堕落・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・の下に暮して見れば、自分は翔びたくて日夜もがいて羽搏くし、そのひとは翔ぼうともせず小さい日向で羽交いの間に首を入れるばかりか、私の脚にいつの間にかついている短い鎖を優しく鳴らして、こんな鎖にも、いまに馴れるよ、と慰めてくれる。馴れる! 何と・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ せめて新らしい女が馴れるまで置いていただきましょうし出来るだけ御馳走も差しあげて置きましょう。」と云って無理無理に淋しそうに笑って自分の部屋に行った。「又あすこで泣いてるんだろう。」 千世子はそんな事を思いながら、我ままの・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
出典:青空文庫