・・・枕元にある新聞を手に取るさえ難儀だ。それでも煙草は一本ふかした。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る煙の行方を見つめていた。するとこの煙の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持眉を寄せた昔の女・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・この登路の難儀を十銭で免れたかと思うと、余は嬉しくって堪まらなかった。しかしそこらにいた男どもがその若い馬士をからかう所を聞くと、お前は十銭のただもうけをしたというようにいうて、駄賃が高過ぎるという事を暗に諷していたらしかった。それから女主・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・高橋君のところは去年の旱魃がいちばんひどかったそうだから今年はずいぶん難儀するだろう。それへ較べたらうちなんかは半分でもいくらでも穫れたのだからいい方だ。今年は肥料だのすっかり僕が考えてきっと去年の埋め合せを付ける。実習は苗代掘りだった。去・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ひどい難儀をしたよ。大へんな手数をしたよ。命がけで心配したよ。僕はお前のご恩はこれで払ったよ。少し払い過ぎた位かしらん。」と云いながら、野鼠はぷいっと行ってしまったのでした。 カン蛙は、野鼠の激昂のあんまりひどいのに、しばらくは呆れてい・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・そしてことしは肥料も降ったので、いつもなら厩肥を遠くの畑まで運び出さなければならず、たいへん難儀したのを、近くのかぶら畑へみんな入れたし、遠くの玉蜀黍もよくできたので、家じゅうみんなよろこんでいるというようなことも言いました。またあの森の中・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・と主婦は顔をしかめながら、例の人の難儀をすてて置かれない性分で早速、医者を迎えた。今じきにあがりますと云いながら、夕方になっても来て呉れないので、家の者は、書生が悪いと云ったので一寸逃れをして居るのだろう、お医者なんて不親切なものだ・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・「顔違いがしてしもて、偉い難儀しました」 章子が笑いながら京都弁で答えた。「ああなると、どれがどれやら一向分らんようになるなあ」「そうどす、一寸は見分けがつきまへんやろ、然し男はんにすると、そのなかから、ふんあこにいよるなあ・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・このため一九二一年までの単一経済組織における農産品の現物税徴収では、ソヴェト政府と都会のプロレタリアートとが大難儀を経験した。 工場に働く労働者とまるで伝統が違い感情もちがう多数の富農・中農民は、永年に亙る非人間的生活にうちのめされ、個・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・暫くすると難儀に遭ってから時が立ったのと、四方が静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余り忙しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際の高家衆・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・貸すなという掟のある宿を借りて、ひょっと宿主に難儀をかけようかと、それが気がかりでございますが、わたくしはともかくも、子供らに温いお粥でも食べさせて、屋根の下に休ませることが出来ましたら、そのご恩はのちの世までも忘れますまい」 山岡大夫・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫