・・・が、棟梁、お前さんの靴は仁王様の草鞋も同じなんだから」と頭を下げて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言って・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・たね子はこう云う夜の中に何か木の芽の匂うのを感じ、いつかしみじみと彼女の生まれた田舎のことを思い出していた。五十円の債券を二三枚買って「これでも不動産が殖えたのだからね」などと得意になっていた母親のことも。…… 次の日の朝、妙に元気のな・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ ――さて、毛越寺では、運慶の作と称うる仁王尊をはじめ、数ある国宝を巡覧せしめる。「御参詣の方にな、お触らせ申しはいたさんのじゃが、御信心かに見受けまするで、差支えませぬ。手に取って御覧なさい、さ、さ。」 と腰袴で、細いしない竹・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 雫を切ると、雫まで芬と臭う。たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思わ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・――有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、その験もなかりけり。また或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を、百人めして、――・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安置した右左の像が丹であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。住職も智識の聞えがあって、寺は名高い。 仁王門の柱に、大草鞋が――中には立った大人の胸ぐらいなのがある――重って、稲束の木・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 一山に寺々を構えた、その一谷を町口へ出はずれの窮路、陋巷といった細小路で、むれるような湿気のかびの一杯に臭う中に、芬と白檀の薫が立った。小さな仏師の家であった。 一小間硝子を張って、小形の仏龕、塔のうつし、その祖師の像などを並べた・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・その匂うばかりの美しさ!「しかし、奇遇でしたね」 と、思わず白崎は言った。「――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはないよりあった方がいいもんですなア。どんないやな奴でも、道連れがいないよりあ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・マダムはすぐ酔っ払ったが、私も浅ましいゲップを出して、洋酒棚の下の方へはめた鏡に写った顔は仁王のようであった。マダムはそんな私の顔をにやっと見ていたが、何思ったのか。「待っててや。逃げたらあかんし」と蓮葉に言って、赤い斑点の出来た私の手・・・ 織田作之助 「世相」
・・・姉が死んだのは、忘れもしない生国魂神社の宵宮の暑い日であったが、もう木犀の匂うこんな季節になったのかと、姉の死がまた熱く胸にきて、道子は涙を新たにした。 やがて涙を拭いて、封筒の裏を見ると、佐藤正助とある。思いがけず男の人からの手紙であ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
出典:青空文庫