・・・だからかわいたしみったれた考えを起こさずに、恋する以上は霞の靉靆としているような、梵鐘の鳴っているような、桜の爛漫としているような、丹椿の沈み匂うているような、もしくは火山や深淵の側に立っているような、――つねに死と永遠と美とからはなれない・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・殺伐な、無味乾燥な男ばかりの生活と、戦線の不安な空気は、壁に立てかけた銃の銃口から臭う、煙哨の臭いにも、カギ裂きになった、泥がついた兵卒の軍衣にも現れていた。 ボロ/\と、少しずつくずれ落ちそうな灰色の壁には、及川道子と、川崎弘子のプロ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 大学の地下に匂う青い花、こそばゆい毒消しだ。よき日に来合せたもの哉。ともに祝わむ。ともに祝わむ。 盗賊は落葉の如くはらはらと退却し、地上に舞いあがり、長蛇のしっぽにからだをいれ、みるみるすがたをかき消した。 決闘・・・ 太宰治 「逆行」
・・・と喚き、さながら仁王の如く、不動の如く、眼を固くつむってううむと唸って、両腕を膝につっぱり、満身の力を発揮して、酔いと闘っている様子である。 酔う筈である。ほとんど彼ひとりで、すでに新しい角瓶の半分以上もやっているのだ。額には油汗がぎら・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 三 運慶が木材の中にある仁王を掘り出したと云われるならば、ブローリーやシュレディンガーは世界中の物理学者の頭の中から波動力学を掘り出したということも出来るであろう。「言葉」は始めから在る。それを掘り出すだけ・・・ 寺田寅彦 「スパーク」
・・・近きベンチへ腰をかけて観音様を祈り奉る俄信心を起すも霊験のある筈なしと顔をしかめながら雷門を出づれば仁王の顔いつもよりは苦し。仲見世の雑鬧は云わずもあるべし。東橋に出づ。腹痛やゝ治まる。向うへ越して交番に百花園への道を尋ね、向島堤上の砂利を・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・「拙が腕をニューと出している所へ古褌を懸けやした――随分臭うげしたよ――……」「狸の癖にいやに贅沢を云うぜ」「肥桶を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り損ってまごまごしておりや・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・運慶の仁王は意志の発動をあらわしている。しかしその体格は解剖には叶っておらんだろうと思います。あれを評して真を欠いてるから駄目だと云うのは、云う方が駄目です。ミレーの晩祈の図は一種の幽遠な情をあらわしている。そこに目がつけば、それでたくさん・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・第六夜 運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫