・・・火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦い顔を照らした。 書面は求馬が今年の春、楓と二世の約束をした起請文の一枚であった。 三 寛文十年の夏、甚太夫は喜三郎と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋の上に立っ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。 しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。 彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。愈彼の人柄に・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 賢造はとうとう苦い顔をして、抛り出すようにこう云った。洋一も姉の剛情なのが、さすがに少し面憎くもなった。「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」「三時頃来るって云っていた。さっき工場の方からも電話をかけて置いたんだが、――」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・今ごろはあの子供の頭が大きな平手でぴしゃぴしゃはたき飛ばされているだろうと思うと、彼は知らず識らず眼をつぶって歯を食いしばって苦い顔をした。人通りがあるかないかも気にとめなかった。噛み合うように固く胸高に腕ぐみをして、上体をのめるほど前にか・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・したがって小さい時から孤独でひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験があるのとで、人に欺かれないために、人に対して寛容でない偏狭な所があった。これは境遇と性質とから来・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」 主人は火鉢にかざしながら、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ われ漕げ、頭痛だ、汝漕げ、脚気だ、と皆苦い顔をして、出人がねえだね。 平胡坐でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家の兄哥が、奴、汝漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴は顱巻の・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ と従七位はまた苦い顔。 七 杢若は筵の上から、古綿を啣えたような唇を仰向けに反らして、「あんな事を言って、従七位様、天井や縁の下にお姫様が居るものかよ。」 馬鹿にしないもんだ、と抵抗面は可かったが、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・「復讐というものはこんなに苦い味のものか知ら」と、女房は土の上に倒れていながら考えた。そして無意識に唇を動かして、何か渋いものを味わったように頬をすぼめた。しかしこの場を立ち上がって、あの倒れている女学生の所へ行って見るとか、それを介抱・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・と、静かに、答えて、苦い顔つきをしながら、居間を出ました。 控え室をのぞくと、乞食かと思われたようなよぼよぼの老人が、ふろしき包みをわきに置いてうずくまっていました。 院長は、その老人と、取り次いだ看護婦とを鋭く一瞥してからいかにも・・・ 小川未明 「三月の空の下」
出典:青空文庫