・・・ 私はぽつねんと坐って、蜘蛛の跫音をきいた。それは、隣室との境の襖の上を歩く、さらさらとした音だった。太長い足であった。 寝ることになったが、その前に雨戸をあけねばならぬ、と思った。風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・氏神の夏祭には、水着を着てお宮の大提燈を担いで練ると、日当九十銭になった。鎧を着ると三十銭あがりだった。種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。お辰は存分に材料を節約したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身の狭い想いをし、鎧の下を汗が走った。・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・…… やがて、新モスの小ぎれ、ネル、晒し木綿などの包みを抱えて、おせいは帰ってきた。「そっくりで、これで六円いくらになりましたわ。綿入り二枚分と、胴着と襦袢……赤んぼには麻の葉の模様を着せるものだそうだから」……彼女は枕元で包みをひ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・今夜いっしょに行ってもお前とこでは寝るところもないんだし、今夜はよく眠って気を落ちつけて出て行きたいから」「その方がいいでしょう。とにかく兄さんにしっかりしてもらわないと、あまり神経を痛めてまた病気の方を重くしても困りますからね。遅かれ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 二 どうして喬がそんなに夜更けて窓に起きているか、それは彼がそんな時刻まで寝られないからでもあった。寝るには余り暗い考えが彼を苦しめるからでもあった。彼は悪い病気を女から得て来ていた。 ずっと以前彼はこんな夢を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ そう言いますと、あの時分は私も朝早くから起きて寝るまで、学校の課業のほかに、やたらむしょうに読書したものです。欧州の政治史も読めば、スペンサーも読む、哲学書も読む、伝記も読む、一時間三十ページの割合で、日に十時間、三百ページ読んでまだ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。「今晩は、――ガーリヤ!」 ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。「ガーリヤ。」 砕かれた・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・君チャンハホットシテ、ネガエリヲウッテ、足ヲチヂメテ、ネルノ。ソレガマイ日ナノ。 トコロガ、君チャンノオ母ッチャハ、ナカナカスグニヘンジヲシナクナッタノ。マイバンユリオコシテイルウチニ、君チャンニハオ母ッチャノカラダガダンダンホネバッテ・・・ 小林多喜二 「テガミ」
・・・ 保釈になった最初の晩、疲れるといけないと云うので、早く寝ることにしたのだが、田口はとうとう一睡もしないで、朝まで色んなことをしゃべり通してしまった。自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなか・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・けれども、これから新規に百姓生活にはいって行こうとする子には、寝る場所、物食う炉ばた、土を耕す農具の類からして求めてあてがわねばならなかった。 私の四畳半に置く机の抽斗の中には、太郎から来た手紙やはがきがしまってある。その中には、もう麦・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫