・・・もし、もし、ちょっとお伺いしますがのし、針中野ちうたらここから……振り向いて、あっ、君はこの間の――男は足音高く逃げて行った。その方向から荷馬車が来た。馬がいなないた。彼はもうその男のことを忘れ、びっくりしたような苦痛の表情を馬の顔に見てい・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・例えば、志賀直哉の文学の影響から脱すべく純粋小説論をものして、日本の伝統小説の日常性に反抗して虚構と偶然を説き、小説は芸術にあらずという主張を持つ新しい長編小説に近代小説の思想性を獲得しようと奮闘した横光利一の野心が、ついに「旅愁」の後半に・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・また玄関前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寝そべっていた。彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 或日自分は何時のように滑川の辺まで散歩して、さて砂山に登ると、思の外、北風が身に沁ので直ぐ麓に下て其処ら日あたりの可い所、身体を伸して楽に書の読めそうな所と四辺を見廻わしたが、思うようなところがないので、彼方此方と探し歩いた、すると一・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ そこでその夜、豊吉は片山の道場へ明日の準備のしのこりをかたづけにいって、帰路、突然方向を変えて大川の辺へ出たのであった。「髯」の墓に豊吉は腰をかけて月を仰いだ。「髯」は今の豊吉を知らない、豊吉は昔の「髯」の予言を知らない。 豊吉は・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 五月七日 一寝入したかと思うと、フト眼が覚めた、眼が覚めたのではなく可怕い力が闇の底から手を伸して揺り起したのである。 その頃学校改築のことで自分はその委員長。自分の外に六名の委員が居ても多くは有名無実で、本気で世話を焼くもの・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・と両手を伸して大欠伸をして「何時かしらん」「最早直ぐ十二時でしょうよ。お午食にしましょうか」「イヤ未だ腹が一向空かん。会社だと午食の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで覗きこんだ。女中部屋・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・天分に於ては決して彼等二三子には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優った者のように思ってお梅嬢に熨斗を附けようとする! 残念なことだと彼は恋の失望の外の言い難き恨を呑まなければならぬことと・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ しかしそれはわれわれが行為決定の際の倫理的懐疑――それは頭のしんの割れるような、そのためにクロポトキンの兄が自殺したほどの名状すべからざる苦悩であるが――から倫理学によって救済されんことを求めるからであって、そのほかの観点からすれば、・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを覚えるようなたちの男だ。掏摸が一度、豪勢な身なりをしている男の懐中物をくすねて鼻をあかしてやると、その快味が忘れられず、何回もそれを繰りかえし、かっぱらう。そして・・・ 黒島伝治 「国境」
出典:青空文庫